198.2 第187話【後編】

3-187-2.mp3 瓦礫が散乱し、崩壊したフロアの中にもかかわらず、アパレルショップのディスプレイが無残に残っていた。その中に、ミリタリーショップが偶然にもあった。 椎名はその店内で服を物色し、迷彩服を手に取った。雨に濡れたシャツを脱ぎ捨て、軍人らしい出で立ちに着替えていく。 鏡に映る自分の姿をじっと見つめる。その姿はまさに彼の本質――戦場に生きる者そのものだった。 「やはり、しっくりくるな。」 彼はふと何かを思い出したかのように呟く。 「仁川さん…?」 「仁川さっ…!」 「椎名!」186 声が脳裏をよぎる。 「あのとき…俺の名前を呼んだ気がしたが。」 椎名は姿見に映る迷彩服姿の自分をもう一度確認し、口元に不敵な笑みを浮かべた。 「さて…。」 ベネシュには特殊作戦群との交戦を命じている。両者が正面からぶつかれば、いかに特殊作戦群が精強な部隊であろうとも、何らかの被害は免れないだろう。 「いくら歴戦の猛者でも、力が拮抗すれば互いに削り合う。そうなれば、消耗戦に持ち込むだけだ。」 創設された特殊作戦群の初戦。ここで彼らが大きな損害を被れば、日本政府の中枢に動揺が広がる。 「政府内にはすでに不満分子が潜んでいる。彼らは特殊作戦群の損耗を口実に、現政権の足を引っ張り始めるはずだ。」 その不満がさらに広がれば、内部での不協和音が助長される。そして混乱がピークに達したとき、次の段階に移行すれば良いだけだ。 「皆殺し…

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198.1 第187話【前編】

3-187-1.mp3 相馬からの報告がないまま、時間だけが過ぎていた。 テロ対策本部の室内は、重苦しい空気に包まれていた。誰も言葉を発さず、机上の時計の秒針がやけに耳に響く。 「こちらSAT。テロ対策本部ですか。」 突然、無線から声が響いた。 岡田は反射的に無線機を手に取った。 「こちらテロ対策本部だ。そちらは?」 「SATの吉川です。自衛隊から応援に入っています。」 その名を聞き、岡田は瞬時に思い出した。相馬から自衛隊特務2名と協力しているとの報告だった。そのうち1名がSATに応援として加わり、もう1名は死亡した――この無線の相手がその一方の生き残りだ。 「相馬から報告を受けている。残念だった。」 無線越しの吉川の沈黙に、本部内も自然と押し黙る。その沈黙は、吉川が相棒の死を受けて沈んでいるのだと、誰もがそう思っていた。だが、次の言葉がその思いを根底から覆した。 「相馬周は死亡しました。」 室内が一瞬で凍りついた。 岡田は目を見開き、呆然とした表情を浮かべる。片倉は両手で頭を抱え、無言で肩を震わせた。 「詳しい状況については、今、別の人間に代わります。」 無線から再び声が聞こえた。それは吉川ではなく、別の人物――「黒田」と名乗る者だった。 「…黒田と申します。」 その名を聞いた片倉の表情が変わった。まるで過去の記憶が引き戻されたかのように目を鋭くし、無線マイクを岡田から奪うように取り上げた。 「黒田…。黒…

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197.2 186話【後編】

3-186-2.mp3 雨音の中、椎名は低い声を出した。 「トゥマンの状況は。」 電話の向こう、アルミヤプラボスディアの精鋭部隊トゥマンを指揮するベネシュ隊長は、一瞬の間を置いて答えた。 「戦力の4割は削られた。」 その報告に、椎名は短い沈黙を挟み、冷ややかに呟く。 「全滅か…。特殊作戦群はまだそこまでの被害は出ていない。」 ベネシュは唇を噛みながら問いかけた。 「どうする。」 「今こそ撃鉄を起こせ。反共主義者に鉄槌を下すのだ――とプリマコフ中佐はおっしゃっている。」 仁川の言葉には感情の起伏がなく、ただ淡々と任務を遂行するかのような響きがあった。その言葉を聞いたベネシュの眉がわずかに動く。 「撤退は選択にないということか。」 「そうだ。」 「しかし、こちらもここまでの被害が出ると事情が変わってくる。本社に確認させてくれ。」 ベネシュは絞り出すように言った。その声には焦燥が滲んでいた。 「何を確認すると言うのだ。」 仁川の声が通信機越しに鋭く響く。 「我々が御社の金主だろうが。」 「そうだが…。」 「おやおや、自衛隊が怖くなったか。」 仁川の言葉には冷笑が混じっていた。その一言がベネシュの胸に刺さり、怒りが沸き上がる。 「…私を侮るな!」 電話の向こうでベネシュが声を荒げる。しかしその怒りを全く意に介さず、椎名はさらに冷徹な言葉を浴びせた。 「命が惜しいと言うなら撤退しても構わんが…

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197.1 第186話【前編】

3-186-1.mp3 「三波…。」 ハンドルを握る手に力が入る。先ほど耳にした三波の死亡報告が、黒田の胸に重くのしかかっていた。 「お前なら、この状況をどう伝える…?」 黒田は自分に問いかけた。 三波はこの事件に命を懸けた。それは自分たちの仕事が単なる報道ではなく、社会に真実を伝える事こそが「使命」だと信じていたためでもあった。 その信念を知っている黒田だからこそ、その死を無駄にすることはできなかった。 誰かが、このこと世の中にを伝えなければならない。 京子は泣きながら三波の死を報告してきた。だが、黒田はその涙を受け止める間もなく、すぐに車に乗り込んだ。 彼の向かう先は金沢駅。現在進行形で戦闘が繰り広げられているという情報が入った場所だ。 ワイパー音 雨脚がさらに強くなり、ワイパーがフロントガラスを滑る速度を上げていた。 助手席に置いたスマホを手に取り、画面を確認する。一般のメディアは、金沢駅で「テロが発生した」という短いニュースを伝えるだけ。詳細な映像も情報も一切ない。 一方で、SNSは混沌としていた。 「金沢駅で銃撃戦が展開されている」 「商業ビルの最上階で無差別銃乱射が起きた」 「ドローン攻撃による爆発があった」 矛盾した情報が飛び交い、事態の全容を把握するには程遠い。 ー一体何が起きてるんだ…。誰も状況を掴めていない…これじゃ、真実が埋もれる。 雨が激しさを増す中、金沢駅へ向かう道は次第に狭まり、警察による封鎖…

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196.2 第185話【後編】

3-185-2.mp3 瓦礫と煙が充満する中、相馬は身を屈めながらもてなしドームの方向に進んでいく。 鉄骨がむき出しになった構造物の隙間から、焦げた臭いと重い空気が流れ込んできた。 「…本当にここは金沢駅か?」 相馬は一人ごちるように呟いた。 滑りやすい足元に何度もつまづきながら、ようやく車両の残骸にたどり着く。彼は息を呑んだ。 車両は完全に焼け落ち、炭化した鉄の骨組みだけがかろうじて原形をとどめている。周囲には黒焦げになった肉片のようなものが散らばり、もはやそこに人がいた形跡すら分からなかった。 何者かの無事を知りたい。その一心で呼びかけをするが、答える者は誰もいない。 全員死亡。 改めて確認しなくても分かる。ここには生命の予感がまったくしない。 相馬は拳を握りしめ、顔をそらした。 その時だった。相馬は瓦礫の隙間を越えた先に、微かに動く人影を見つけた。 「…誰だ?」 雨音がその声をかき消す中、相馬は注意深く視線を凝らした。 人影は遠く、不規則に揺れるような動きを見せていた。生存者か、それとも――。 警戒心が相馬の体を緊張させた。 そのとき彼の足元に近い瓦礫の隙間で、わずかに動くものがあった。 全身に火傷を負い、皮膚がただれた一人の男。 ウ・ダバ構成員のひとりだ。 彼は虫の息の状態ながら、仲間たちが次々と倒れていくのを目撃したのだ。 ー俺だけか…。 明らかに焦点が合っていないその目は意思によってのみ機能していた。 男はかす…

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196.1 第185話【前編】

3-185-1.mp3 金沢駅周辺は瓦礫と黒煙に包まれていた。 さっきまでの轟音と衝撃は過ぎ去り、代わりに訪れた静寂が耳を痛くするほどだった。辺りには硝煙と焼け焦げた鉄の匂いが漂い、崩れ落ちた構造物の隙間から冷たい風が吹き抜けている。 雨はすでに降っていた。小さな雨粒が瓦礫や死体の上に降り注ぎ、静かに煙を冷やしている。 雨音がかすかなざわめきのように現場に広がっていたが、次第にその音が耳障りなほど強くなり始めた。 吉川は荒れ果てた現場に足を踏み入れた。 靴底が瓦礫を踏む音だけが響く中、彼の目は現場を注意深く見回していた。 雨粒が額に叩きつけられ、濡れた髪が顔に張り付く。 「…こちら吉川班。隊長、応答されたい…。」 かすれた声が口から漏れる。何度目かの呼びかけだったが無線からも周囲からも、何の応答もなかった。 胸の奥に嫌な予感が膨らむ。 雨脚はさらに激しくなり、まるで現場の傷口を抉るように瓦礫や遺体を濡らし続けた。 雨水が地面にたまり、小さな水たまりが幾つもできる。 「自分は指揮車両の方を確認してきます!」 一緒にいた部下が焦燥感に駆られたようにそう言うと、瓦礫を避けながら駆け出した。 濡れた瓦礫が滑りやすくなっているのか、彼の足取りはぎこちなかったが、それでも彼の背中には必死さが宿っている。 吉川はその背中を追いかけようとしたが、一瞬足が止まった。 雨音が現場全体を支配する中、瓦礫の間で鉄片が転がるような音が響いた。それは、重たい沈黙の中で不気…

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195.2 第184話【後編】

3-184-2.mp3 半壊した柱の陰にしゃがみ込む朝戸は、壁越しに男の姿を捉えていた。 男はSATの制服をまとい、平然とした態度で無線に向かって何かを指示している。だが、周囲に転がる遺体、SAT隊員たちの無残な姿が、その男の存在に異様な違和感を与えていた。 「不自然すぎるだろ…。」 朝戸は呟いた。 SAT隊員たちが壊滅状態にある中で、彼だけが生き残っているのはどう考えてもおかしい。 男の佇まい、異常な状況、不敵な態度。すべてが朝戸に「こいつは普通じゃない」と訴えかけてきた。 「偽物…。」 朝戸の目には、そのすべてが「意図的に仕組まれたもの」に見えた。 何か巨大な力が働き、自分をさらに不利な立場へ追い込んでいるような感覚。それは彼がこれまでの人生で幾度となく感じてきたものだった。 ーまただ…また俺を踏みつける奴が現れた…。 心の中で呟いた言葉が、体の奥底から沸き上がる怒りの奔流をさらに煽った。 就職氷河期――あの時の記憶がよみがえる。 希望する会社の門前払い、理不尽なまでの競争、どれだけ努力しても選ばれるのは「もっと条件のいい」誰か。 企業の冷たい笑顔と一言が脳裏を過ぎる。 「厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが今回は採用を見送らせて頂くこととなりました。 朝戸様の今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。」 何十回、何百回と突きつけられた現実。そこで味わった挫折と屈辱。それでもなおもがいて手を伸ばしても、周囲の冷笑と…

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195.1 第184話【前編】

3-184-1.mp3 機動隊の車両がもてなしドームに突っ込んでくる様を、相馬は物陰に隠れて見ていた。 「あいつを壁にするんですか。」 「そのようだな。」 相馬の隣で児玉も同じように物陰に隠れていた。 「え…あれって。」 相馬の視界に一機のドローンが映った。 刹那それは機動隊車両の上で自爆した。 「伏せろ!」 唐突に、児玉の声が交番内に響いた。 声の鋭さに、相馬は条件反射的に身をかがめ、床に倒れ込むように伏せた。その瞬間――。 爆発の轟音 轟音とともに、全てが白くなり、凄まじい衝撃が空間を引き裂いた。爆風が壁を吹き飛ばし、破片とガラスが嵐のように舞い散る。鼓膜を破るような音が耳をつんざき、相馬は一瞬、自分の体が宙に浮いたように感じた。 相馬は体を起こそうとしたが、右腕に鋭い痛みが走り、呻き声を漏らした。 腕を見ると上着の袖が裂け、血がじわじわと流れ出ている。腕に刺さった小さな金属片が、真っ赤に染まった布地から鈍く光っていた。 「くそ…!」 相馬は痛みに耐えながら周囲を見回した。 交番は瓦礫の山と化し、粉塵が濃く漂っている。息をするたびに、焦げた匂いと土埃が喉を焼くようだった。 「児玉さん…!」 相馬は手を伸ばし、すぐ隣にいたはずの児玉の姿を探した。 やがて目に飛び込んできた光景に、彼の心臓は凍りついた。 児玉は机の残骸の下敷きになり、全身が血と埃に覆われていた。 目を見開いたままの顔には、かすかな表情の…

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194.3 第183話【後編】

3-183-3.mp3 ドローンが機動隊車両の上空に達したかと思うと、突如として激しい閃光が放たれた。次の瞬間、爆音とともにドローンが自爆し、その衝撃が車両に直撃する。 軽めの爆発音 爆発音は雷鳴のように周囲に轟き、もてなしドームを揺るがした。その音は商業ビルのガラスを震わせ、破片が空中を舞った。 吉川「伏せろっ!」 吉川がSAT隊員に大声で言った。 大きな爆発 車両の中に積まれていた火薬が誘爆した。炎が瞬く間に車両全体を包み込み、巨大な火の玉が金沢駅前を照らし出した。爆風は猛烈で、周囲の車両や建物に衝撃波が伝わり、商業ビルの窓ガラスが次々と割れて粉々に飛び散った。爆風は人々をなぎ倒し、もてなしドームに響く悲鳴が一瞬でかき消された。 爆発の熱気が瞬時に周囲を焼き尽くし、煙が高く立ち上る。黒煙は駅前を覆い、街の美しい景観を恐ろしい戦場に変えた。ビルの上層部からは、火災警報の音が鳴り響き、壊れた窓からは煙が漏れ出す。瓦礫と車両の破片が周囲に散らばり、現場は一瞬にしてカオスと化した。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 椎名はSAT指揮車両の中で静かに座り、周囲の惨状を冷徹に見つめていた。 車両のモニター越しに炎に包まれた機動隊車両が見えた。爆発によって吹き飛ばされた瓦礫が、無秩序に散乱し、黒煙が空高く立ち上る。金沢駅の景観は、戦場そのものに変貌していた。SATの隊員たちは必死に無線で指示を飛ばし、混乱する戦場の制御に努め…

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194.2 第183話【中編】

3-183-2.mp3 特殊作戦群「こちら特殊作戦群、これよりアルミヤプラボスディア掃討のため現場に介入する。SATは援護を頼む。」 無線の一報が入った瞬間、戦場のすべての勢力が息を呑んだように思えた。 自衛隊の特殊作戦群が戦闘に介入する。 それは、当該部隊が創設され初めてのことである。しかも現場は日本。 すべての当事者が、その異様な光景に困惑し、動きを止めた。 片倉「特殊作戦群やと…。」 公安特課テロ対策本部の片倉がこれ以上の言葉が出ないようだった。 相馬「特殊作戦群…。」 駅交番で児玉と共に待機する相馬も、この部隊名称を呼ぶのが精一杯だった。 森本「特殊作戦群だと…。」 機動隊車両に待機していた森本と高橋は思わず喉を鳴らした。 古田「特殊作戦群…。どこから来る…。」 商業ビル7階で機動隊員に保護される中、古田は神妙な面持ちで呟いた。 一郎「特殊作戦群か…面白い…。」 ビル屋上でライフルスコープを覗き込む、卯辰一郎だけは不適な笑みを漏らした。 特殊作戦群「こちらの情報ではアルミヤプラボスディアは地下より地上へと突入を試みているとの情報だが間違いないか。」 これにはSAT指揮官が応えた。 SAT指揮官「アルミヤプラボスディアは商業ビル後方にもいるとの情報あり。」 特殊作戦群「なに?」 SAT指揮官「規模は不明。今先ほど我が隊員より入った情報だ。」 特殊作戦群はこれに対して5秒黙した後、こう応え…

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194.1 第183話【前編】

3-183-1.mp3 外国人観光客の保護を名目に、ウ・ダバの制圧を試みる。それがトゥマンの当初計画だった。だが、その仕込みの外国人観光客が全員殺されてしまった。そのため彼らを保護する行動という名目はなくなってしまった。 先ほどから仁川と無線連絡を取ろうとするも応答はない。 爆発音 トゥマンA「少佐による合図です。」 轟音と共に金沢駅のもてなしドームが煙に覆われた。 トゥマンA「爆発と同時に車両火災が発生した模様。炎と黒煙が上がっています。視界不良。」 この状態ではこちらから伝令を寄こすのも難しい。 トゥマンA「隊長。」 商業ビルの状況を知った上での仁川のこの爆破かどうかは分からない。しかしだからと言ってここでの撤退はあり得ない。アルファの犠牲についてはひとまず置いておこう。そうベネシュは仕切り直した。 ベネシュ「ベータ、ガンマ。聞こえるか。」 トゥマンB「ベータ聞こえます。」 トゥマンC「ガンマ聞こえます。」 ベネシュ「突入開始だ。対象ウ・ダバ。やつらを制圧せよ。」 トゥマンB「了解。」 トゥマンC「了解。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 爆発音 神谷「始まったか。」 雨に濡れるビルの屋上にいた神谷はフィールドスコープを使って、その様子を見た。 鼓門の下は燃え上がる車両の煙によって視界が遮られていた。 神谷「神谷より一郎。」 一郎「はい一郎。」 神谷「現場の状況はど…

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193.2 第182話【後編】

3-182-2.mp3 朝戸は商業ビル1階まで降りてきた。 ー藤木さんよ…。あんたやっぱり警察の人間だったんだな…。 偶然が過ぎた。沙希が眠る寺で偶然出会い、宿も偶然一緒。これを縁としてセバストポリとかいう喫茶店で食事し、他愛もない話で世代を超えて盛り上がる。沙希の姿を投影した山県久美子の様子を見て、気を落ち着かせようと彼女の勤務先の近くにいると、ここでもまた偶然、藤木と遭遇。そこでまさにこのコーヒーチェーン店で自分の孤独について吐露した。このコーヒーチェーン店で記憶は消え、気がつくと宿に自分の身があった。どうやら帰路で気を失って倒れていたところを偶然、藤木に助けられたらしい。 ここまでくると偶然とは言いにくい。朝戸は意識して藤木と接点を持っていたわけではない。となるとそうだ。藤木の方が朝戸との接点を意図的に持っていた。そう考えるのが自然だ。 薄々わかっていた。しかしそれを信じたくなかった。だから気づかないふりをしていた。 これが「情愛」か。 藤木との交流を通じて朝戸が知った人間としての温かみ。これまでの孤独に沈んでいた彼にとって、それは何かに似た体験だった。 この感覚は何だ。 わからない。 だが朝戸が藤木を排除できなかった理由はここにあるはずだ。 こういった心の揺れはその奥底で、人間的なつながりに対する希求を無意識に芽生えてさせているのだろうか。 しかし朝戸はまだその情愛を完全に受け入れる準備ができていなかった。 藤木との邂逅は「偶然」ではなく「…

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193.1 第182話【前編】

3-182-1.mp3 「おい。あれ。」 吉川が妙なものを見るような声を出したため、相馬と児玉は彼の指す方を見た。 窓の外に自動小銃を小脇に抱えてこちらの方に悠然と歩いてくる男の姿があった。 咄嗟に相馬は本部に照会をとった。 「駅交番から本部。」 「はい本部。」 「音楽堂の方面から鼓門方面に徒歩で移動する、武装した男一名あり。」 「それが椎名賢明だ。」 「椎名は何を?」 「予定より少し早いがウ・ダバをおびき寄せることになった。」 「この状況下でですか?商業ビルの状況もまだ把握できていないのに?」 貸せと言って児玉が相馬から無線トランシーバーを取り上げた。 「本部、本部。こちら駅交番、共同作戦を担当する自衛隊の児玉です。」 「自衛隊?」 自衛隊という単語を無線から聞き、本部の通信員は一瞬ひるんだように感じられた。 「警察の作戦は承知しているが、この状況でウ・ダバを引き込むのは更なる混乱を招く恐れがある。第一椎名の装備がおかしい。」 「装備がおかしいとは?」 「小銃を携行するのは別に問題ないが、背中に背負っているアレはRPGだ。」 「RPG?」 児玉が説明する状況を本部の人間はどうも理解できていないようである。 「意図を持った装備だ。椎名の姿は映画のランボーそのものだ。小銃にはグレネードランチャーまで装着されている。あれは完全に敵側を自分の手で殲滅するための装備だ。誘引するだけの意図のものでない。」 「椎名はテロリスト朝戸…

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192.2 第181話【後編】

3-181-2.mp3 銃撃数分前 「はぁ…はぁ…はぁ…。」 ようやく6階の階段踊り場にたどり着いた古田は息も絶え絶えだった。 疲労により腰をかがめた状態の彼は、階段の手すりから手を離し、自分の膝をぐっと押す。 やっとの思いで、彼は背を伸ばすことができた。 ついさっき、パンパンという銃声と後に凄まじい連射音が聞こえた。自分のような警官が所持しているハンドガンの音ではない。連射機能を備えた自動小銃の音だ。こんなところでボヤボヤしている場合ではない。すぐに銃声の聞こえた方に向かいたいが、身体が思うように動かない。 「古田から相馬。」 「はい相馬。」 「たった今、最上階のあたりで自動小銃の連射音が聞こえた。状況、把握できているか。」 「え!?」 「商業ビル班は7階に応援を寄こしたって言っとったよな。」 「は、はい。」 「そいつら…どこ行ったんや…。」 こう古田がぼやいたと同時に、彼は体勢を崩した。右足が粘り気のあるものを踏んだためにずるりと滑ったのだ。 「ああっ!」 咄嗟に階段手すりを掴むことができた彼は転倒を回避した。 「古田さん。一旦引き返した方が良いんじゃないですか。」 相馬が無線で呼びかけた。が、古田はそれに応答できなかった。 古田の足下には身ぐるみを剥がれ、血を流して横たわる警官2名の姿があった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「だめだ…。」 何度も古田の名前を呼ぶも、彼か…

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192 第181話【前編】

3-181-1.mp3 ここは金沢駅隣接のマンションの一室。必要最低限の通信機材とパソコンが配されたそこには、それを操る通信員と武装した男達が所狭しと待機していた。 ベネシュを頭とするトゥマンは部隊を何個かに分けて、この場所に到着した。1時間前のことである。 当局が民間人を金沢駅周辺から事前に避難させるようだとの情報を入手したベネシュは、その混乱に乗じて部隊の内3名と、現地協力者の7名でもって商業ビルで威力偵察を仕掛けるよう命令を出した。 公安特課や自衛隊が混乱に対してどういった対応をするかを事前にある程度把握するためである。 「避難行動が始まったら、出口である1階は混乱する。そこで発砲し、当局がどう捌くかを見極めろ。特に外国人に対する避難誘導の手際を知りたい。その際、避難民にけが人が数名出ると良い。怪我の程度は軽傷だ。それに関する対応の状況も見たい。」 作戦の意図を示してベネシュはトゥマンの中から3名選抜した。チームαと名付けられた彼らは現地協力者と共に任務のため商業ビルへと向かっていった。 予定通り商業ビル1階で彼らは発砲した。それにより商業ビルから既に避難誘導されていた民間人はパニックを起こし、蜘蛛の子を散らしたようにそこから逃げ出してきた。 「デルタ、デルタ。こちらアルファ。」 「アルファ、こちらデルタ。」 「作戦成功。民間人のけが人2名確認。」 「当局の様子はどうか。」 「予期せぬ事で混乱している。しかし落ち着いている。ただし外国語が話せる要員…

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191 第180話

3-180.mp3 17時半 「おい!椎名!マサさん!返事しろ!」 片倉が無線機から何度も椎名と富樫の名前を呼ぶ声が聞こえていた。 「Слава Отечеству。」 「では始めよう。」 椎名は車両の中のキャビネットをまさぐり、武器を手に取り始めた。 「あぁすいません。無線の調子が急におかしくなってしまって。」 「なんや、ジャミングか。」 「わかりません。急に音が聞こえなくなってしまって。」 「椎名は。」 「出ました。」 「なに?」 「いま車から出ました。」 「な、もう!?」 森本の前に座る椎名はにやりと彼に微笑み返した。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 交番の中で待機していた古田はおもむろに立ち上がった。 「どうしたんですか。」 相馬が声をかける。 「ちょっくらビルの方にいってくる。」 この場にいる古田、相馬、児玉、吉川はいま商業ビルで何が起きているのかを無線を通じて把握している。 相馬「今から行ってどうするんですか。」 古田「あそこには久美子がおる。」 相馬「久美子…。」 相馬の表情が曇った。 古田「ワシの最重要任務は久美子の観察と保護や。いまワシがここに居ることは主任務じゃあない。」 相馬は何も言えなかった。 「なんだ。久美子ってのは。」 吉川が尋ねた。 しかしこれを説明するには時間がかかる。 相馬「公安特課重要監視対象で…

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190.2 第179話【後編】

3-179-2.mp3 金沢駅隣接の商業ビル。ここでは30分前から施設の緊急点検を行うということで、ビルに入居する店舗と来店客に一斉退去を求めていた。 山県久美子が店長を務める店舗も例外ではなく、アルバイトを先に帰宅させた彼女は売上金や釣り銭を手持ちの巾着袋にまとめて、それを抱えて業務用の階段で移動していた。 「久美子!」 人の流れに逆らうようにこちらに向かって来る者があった。 オーナーの森である。 彼女らは一旦人の流れから距離をとった。 「なんだかショップの方が騒がしいって聞いてきたら、なにこれ。」 「設備に不具合があったらしくて、緊急の点検のため全員退去しろって。」 「そんな馬鹿なことある?」 契約警備会社だけでは対応ができないのか。POLICEと書かれたジャケットを羽織る人員もその誘導にかり出されていることを森は久美子に指摘した。 「ひょっとしたら爆発物とか見つかったのかもしれないわよ。」 「確かに…警察まで出てるって普通じゃ考えられませんね。」 「正直なこというとパニックになっちゃうから。」 もしもそうだったらこんなところで油を売っている場合ではない。森は久美子の手を握って業務用階段を駆け下り出した。 そのときである。階下からぱんっという乾いた音に続いて悲鳴が聞こえた。 「なに…。」 ふたりは足を止めた。 階下からは人が撃たれたとの声が聞こえてきた。 「ちょっと…これ、何?一階の出口に銃を持った奴がいるって言うの…

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190.1 第179話【前編】

3-179-1.mp3 青と白のストライプ柄の機動隊車両が音楽堂側の道路に駐車した。 車の中では様々な通信機器が搭載されていて、頻繁にどこかと交信している様子だ。 「あと30分。」 腕時計に目を落とした富樫が呟いた。 「5分前に出るか。」 「はい。」 富樫と横に並ぶように座っているのは椎名賢明だ。この車両の中には彼ら二人と機動隊員3名。通信手が2名の総勢7名が居る。 椎名は窓に掛けられたカーテンに隙間を作り、そこからのぞき込むように外の様子を見た。窓に張り巡らされた鉄格子が視界を邪魔した。 鉄道の運休が発表された駅からは続々と人が捌けていた。バスを待つ人の列が目立つ。 視線を隣接の商業ビルのほうに移すと、そこからも人がバラバラと出てきている。彼らもこのバスの列に加わるのだろう。 「あの人達はどれくらいで捌けるんですか。」 「あと15分もすれば捌ける。商業ビルのほうの誘導も順調やと報告がはいっとる。」 「予定通りですね。」 富樫は椎名のこの言葉には返事をしなかった。 「まぁ商業ビルの方は全く予定されとらんかった緊急のメンテナンスやし、テナント側からかなりの突き上げをくらっとるみたいやけどな。」 「今日の夜に予約はいってた飲食店なんかもあるんでしょう。」 富樫は頷く。 「基本、アパレル関係が充実したファッションビルの体やけど、最上階が飲食階やしな。損害賠償もんや。」 「あれですか。機密費とかでなんとかするんですか。」 「よ…

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189.2 第178話【後編】

3-178-2.mp3 金沢駅の改札口前に大きなホワイトボードが設置された。 そこには「この先大雨の予報のため、本日の運行を中止します」と達筆で書かれている。 確かにまとまった雨が降り出した。しかし昨日の大雨と比べてたいしたことは無い。携帯の天気予報アプリで雨雲レーダーを見ても、そこまでの降雨量は予想されていない。なのに運行中止の案内だ。 駅側の説明によると、昨日の大雨によって緩んだ地盤が、今日のこの雨によって崩壊した箇所が数カ所発生したようだ。それにより架線が破壊され運行ができない状況になっている。復旧のめどは立っていない。したがって本日の運行は中止とするらしい。 理由が理由だ。ということで金沢駅から代替手段であるバス、タクシーといった交通手段に切り替える人たちが潮が引くように改札口前のコンコースから人が捌けだした。 「なかなか手慣れた情報操作だな。見ろ。混乱とは無縁だ。」 挺熟练的信息操作啊。看吧,没有一点混乱。 「いやいや、これぞ日本人の民度だ。我が国では考えられん。秩序立った行動だ。日本という場所と日本人という生き物だけできる芸当さ。」 不不不,这就是日本人的素质。咱们国家是想象不到的。这是只有日本这个地方和日本这种人才能做到的奇迹。 「よし。ひとつかましてみよう。」 好。咱们搞一搞。 「いいだろう。」 行。 コンコースからバス停に移動する彼らのひとりが電話をかけた。 「やれ。」动手吧。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー…

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189.1 第178話【前編】

3-178-1.mp3 「ご遺族には私から連絡する。当面デスクは三波君のことは秘して、平静を装ってくれ。」 「…。」 加賀と正対する黒田はただひたすらに床を見つめて直立していた。前髪が黒田の顔を隠すため、加賀の目では彼がどういった表情をしているかは分からない。 「デスク。」 「…わかりました。」 社長室から出た黒田は二歩ほど歩いた。しかしどうも足下がおぼつかない。壁により掛かるとへなへなと自分の身を折りたたむようにそのままそこに座り込んでしまった。 「嘘だろ…。」 声にならない声を出す。自分にも聞こえない。 彼は天を仰いだ。 熱いものが目から頬、そして顎を伝う。 バイブ音 こんな時に何の電話だというのだ。携帯を手に取った黒田はそれを床にたたきつけてやろうと思った。しかし、画面に表示される名前を見て、顔を手で拭った彼は慌ててそれに出ることにした。 「京子…大丈夫か。」 「デスク…。」 「…社長から聞いた。お前、いまどこだ。」 「警察署にいます。」 「そうか…。」 「デスク、わたし、何もできなかった…。」 この京子の言葉に黒田は何の返事もできなかった。 「とにかく行かなきゃって思って、バイクで必死になって向かったんだけど…遅かった…。」 「京子…。」 「そこに沢山の死体があった…。」 「おい…。」 「三波さんはうつ伏せだった…。」 「おいやめろ。」 「頭から血を出して…。」 「やめろー!」 黒田は絶…

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188.2 第177話【後編】

3-177-2.mp3 静かに開かれたそこから岡田が姿を現した。 片倉と富樫は彼の姿を見てこう思った。 疲れ切っている。 ここ数日、まとまった休息をとっていない。それは片倉や岡田、百目鬼と言った上層部の人間だけがそうだというわけでなく、富樫のような現場の人間も同じだ。皆に余裕がない。だから片倉も富樫もここで岡田を気遣うような言葉を発する余裕もなかった。 部屋に入ってきた岡田はスピーカーから流れるツヴァイスタン語の会話を背景に片倉に語りかけた。 「椎名の様子はどうですか。」 「案外落ち着いとる。」 こう言って片倉は画面に映る椎名をしゃくる。 画面の椎名は携帯電話で話していた。 ーУблюдок! 「相手はヤドルチェンコですか。」 「ああ。」 「荒れてますね。」 「朝戸なんて素人に、アジトを壊滅させられたんやしキレるのもしゃあないやろ。」 俺はツヴァイスタン語なんてわからんがなと片倉は付け加えた。 「朝戸は金沢駅に来ます。」 これには片倉は無言だった。 「自分の勘です。朝戸は金沢駅に必ず来ます。」 同じ事を岡田は繰り返して言った。 「俺もそんな気がする…。」 うつむき加減に片倉はぼそりと呟いた。 椎名は朝戸の代わりに連中に合図を送る役として金沢駅に行く。合図は爆発だ。椎名はヤドルチェンコから爆発の起爆装置を渡される手はずになっている。そう片倉は岡田に説明した。 「爆発物は金沢駅から発見され…

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188.1 第177話【前編】

3-177-1.mp3 コーヒーをすする音 「完全に暴走し出した感じですかね。朝戸。」 「…。」 「片倉班長?」 「あ、あぁ…。」 再びコーヒーを啜った富樫は片倉を珍しいものを見るような目をして続ける。 「案外、班長もセンチなんですな。」 「…。」 「センチになるのは明日で良いじゃないですか。」 この言葉に片倉は一息つく。 「…あぁそうや。無事明日になれば、そこで思いっきり怒って笑って泣けば良い。マサさんの言う通りや。」 こういうと片倉は立ち上がった。 「椎名はこの朝戸の行動については、本当に関知しとらん感じですね。」 朝戸の裏切り行為は直ぐさま椎名に伝えられた。この報を受けた椎名の表情は変わることはなかった。ただ「そうですか」とひと言漏らし、朝戸の行方に関する情報は無いかと尋ねるだけ。それも無いと知ると「わかりました」と言ってヤドルチェンコと再び連絡をとっている。 「椎名からは朝戸の損切り感が出とります。」 「それすらも奴の演技ということはない…か。」 画面に映る椎名から視線を逸らし、富樫は片倉を見る。 「仮にこの朝戸の裏切りも椎名の計画の範疇やったとしても、私らには何の対策もできません。何れにせよ椎名は朝戸の排除をヤドルチェンコに依頼しとりますから、熨子山の件を椎名から聞いたヤドルチェンコは、ウ・ダバネットワークを駆使して朝戸をあぶり出すでしょう。」 「警察がテロリストに対応を任せるか。」 「朝戸が死ぬこと…

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187.2 第176話【後編】

3-176-2.mp3 バイクのエンジンを切った京子はそれから飛び降りた。 山小屋の入り口付近の状況は先ほどと何の変わりもない。あるのは今乗ってきたオフロードバイクだけだ。 小屋の入り口の前に立った京子はそこから再び三波の名前を呼んだ。 「三波さん。」 返事がない。 自分の声量が小さかったかもしれない。しかし大きな声を出すのは憚られる雰囲気をこの場は持っていた。京子は恐る恐る入り口扉を開いた。 暗い。壁板から漏れる明かりが中を所々照らしているが、そのほとんどが見えない。京子は中に入るために一歩を踏み出した。 すると踏み出した右足先に何かが当たった。瞬間、京子は触れてはいけないものに接触している感覚に襲われた。何かが見えるわけではない。足先の感覚だけでそのような感じを受けたのだ。彼女は咄嗟に右足を引っ込めた。 「見るな。見るもんじゃない。」175 三波が言っていたこの言葉を思い出した京子は思わず目を瞑った。 「三波さん。大丈夫ですか。」 目を瞑ったまま発されたこの言葉にも反応はなかった。 相手を気遣うような言葉が京子の口から出たが、それは自分を奮い立たせるための方便に過ぎない。そのことを京子自身は理解していた。 「三波さん。」 言葉を発することで京子はなんとか踏みとどまった。 京子はようやく目を開いた。右足に当たった何かをその目で確認しようと。 男の手の甲が彼女の視界に映った。 途端に腰から下の力が抜けた。 彼女はその場に尻餅…

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187.1 第176話【前編】

3-176-1_2.mp3 「片倉班長。報告が。」 神妙な面持ちで捜査員のひとりが片倉に耳打ちした。 「先ほどまでここに居た捜査員が逃走しました。」 「なにっ?」 「署内で電話をする奴の姿を見た同僚警察官が声をかけると、ごにょごにょ言ってその場から走って逃げだしたというものです。」 「簡単に説明してくれ。」 片倉の代わりに椎名の対応をしていた捜査員が、署内で「合図を待て」とか「追って連絡する」と電話で話す姿を同僚警察官が見たので声をかけた。その同僚警察官は彼が公安特課、とりわけ現在の片倉の側に仕えていることを知っており、そんな彼が妙な電話をしているもんだと不審を抱いたのだ。 電話の相手は誰かと尋ねると、彼は家族だと返した。しかし彼の家族は施設に入っている認知症の母親ひとりであり、その応えは明らかに嘘だった。それを指摘しようとしたところで、彼はその場から走り去ったというものである。 「目薬の男ね…。」 独り言を呟いた片倉は腕組みをして口をへの字にする。報告に来た捜査員は片倉の言葉の意味が分かりかねる様子だった。 「あの…追いましょうか。」 「いや、いい。」 「は?」 「放っておけ。今はそれどころじゃない。」 「しかし…。」 「手配だけはしておけ。今はそんなことに戦力を割くことはできん。」 「報告してきた機動隊員が、できることなら自分が捜索したいと申し出ていますが。」 「今はその機動隊員にひとりの欠けも許されん状況や。申し出は嬉しいが今は…

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186.2 第175話【後編】

3-175-2.mp3 「おかけになった電話は電波の届かないところにあるか、電源が切られているため…」 「なんだよー。どこ行っちゃったのよ…。」 電話を切った片倉京子はため息をついた。 ここで待ってると言われた場所に戻ってきたのに、当の三波が居ない。 まさか心変わりしてまた家に帰ったなんて事はあるまい。体力が回復したから先を急いだのだろう。どうせすぐに私に追いつかれるのだから。 そう判断した京子は遊歩道を歩くのを止め、開けた車道の方に出た。こちらの方が舗装されている分、駆け足でもいける。彼女は三波への遅れを取り戻そうとペースを速めた。 「あなたも聞こえた?」 「はい。パンパンってなんだか乾いた音でした。」 「パンパン?」 「はい。」 「違うわよ。もっと鳴っとったわ。」 「もっと?」 「そう。パン。パンパン。パン。って」 「え?そんなに?」 「ええ。」 「それ何の音ですか?」 「いやぁ何かしらねぇ。あんまり聞いたことない音だったから。」 破裂音は京子の空耳ではなかった。しかし熨子山に住まう人間にとっても耳慣れない音であったのは確かだ。京子はくねくねとカーブが続く車道の際を早足で山頂に向かっていた。 エンジン音が山頂方面から聞こえた。それはどんどんこちらに近づいてくる。エンジン音を聞くだけで随分荒い運転をしていることが分かる音だ。困った輩が居るもんだと京子は心の中で呟いた。 やがてその車は姿を現した。アメリカ車のSUVだ。信じられないスピード…

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186.1 第175話【前編】

3-175-1.mp3 「はぁはぁはぁ…。」 息を切らして部屋の隅に膝を抱え込んで座る朝戸がいた。 彼の視線の先には横たわる男の姿が二つ。いや三つ。 何れも血液によって畳を黒く染めている。 頭痛音 「ううっ!」 金槌のようなもので殴られたのではないかと思えるほどの衝撃が自分の頭部に走る。 頭を抱えて彼はその場に倒れた。 すると左肩をじゅわっとした液体の感触が走った。なんとも言えない不快な感覚だ。しかしその不快よりも頭痛の方が勝っていた。朝戸は横になった。 すると同じく横たわっている一人と至近距離で目が合った。 彼の方は息をしていない。 頭部を銃で撃ち抜かれている。ただただ部屋の床をうっすらと開いた目で見つめているだけだ。 「またやっちまった…。」 すぐ側に一丁の拳銃が無造作に置かれていた。 「もう、俺を殺そう…。」 朝戸はそれに手を伸ばした。 しっかりとした重さのあるのコンパクトタイプのグロックだ。 その銃口を彼は自分の口に咥えた。このまま引き金を引けば、腔内を貫通して脳を打ち抜き即死する。 朝戸は躊躇うことなく引き金を引いた。 カチン 銃弾は発射されなかった。 カチンと金属音が鳴るだけで、自分の口の中を鉄のようなニオイが覆うだけだった。 「んだよ…。」 拳銃を放り投げた。 「タマなしの銃なんか持ってんじゃねぇ!!」 「やる気あんのか!!このタマなし野郎ども!!!!」 横たわったまま朝…

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185 第174話

3-174.mp3 マウスホイールをころころと転がし、SNSのタイムラインを流し読みする椎名の目が「日本大好き」という名前のアカウントを補足した。 ーちうつょえひいしなはひうじょんくょふ ここで椎名の動きは止まることは無い。 他愛もないポストの連続だと言わんばかりに、椎名はタイムラインを下へ移動させた。 この部屋には自分以外の誰もいない。あるのはデスクトップ型のパソコンと部屋の四隅に設置されたカメラだけ。 椎名は大きくため息をつく。次いで首を前後左右に動かす。こうやって肩をほぐすそぶりを見せながら部屋の様子をうかがった。しばらくしても外から何の反応もなかった。 再びモニタに目を移しタイムラインを流すと、日本大好きのアカウントを再度目にした。 「2番目じゃだめだ。1番でないと意味がない。1番でないと支配される側に回る。支配される時代は終わった。」 これには椎名は特別反応を示さず、手を止めることなく画面をスクロールさせる。 ーまたもシーザー。 シーザー暗号は各文字を一定数だけシフトする方法。例えば「れもん」と言う単語がある。この言葉のそれぞれを1つ次へシフトすれば「ろやあ」となる。発行元はこの「ろやあ」の暗号文とその暗号鍵を受け手に伝えることができれば元の意味が伝わるというわけだ。 極めてシンプルな暗号であるため実用的ではない。しかし、現在椎名が置かれている立場では複雑な暗号手法は取りにくいため、隠喩以外の方法ではこういったものしか採用できない。 …

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184.2 第173話【後編】

3-173-2.mp3 民泊の床下から続く通路は20メートル先の廃屋に通じていた。そこには生活の形跡はなく、何者かが常駐していた様子もなかった。ただ鑑識によるとバイクのタイヤ痕のようなものが確認されており、ここに出た朝戸は、そのバイクに乗って何処かへ移動したものと考えられた。 「駄目です。目撃情報はありません。」 地取り捜査の報告を受けた岡田は肩を落とした。 「自衛隊も公安特課も踏み込んだら対象居ませんでしたって…。」 昨日、自衛隊が踏み込んだアパートは今回の民泊とは目と鼻の先だ。どちらも常時監視という力の置きようで対応していたのにこのざまだ。こいつは四方八方から無能のそしりを受けるなと、気が滅入る岡田だった。 「地下通路って随分前から準備していたんですね。」 「…そうやろうなぁ。」 彼は机に広げられた現場付近の地図を見下ろしながら、生返事でしか応えることができなかった。 「ん?いま何て言った?」 「え?」 「あれ、お前、いま何て言った?」 「あ、いや、地下通路って昨日今日作れるもんじゃないでしょ。だから相当前からこのことを想定して準備していたんですねって。」 岡田は捜査員を見て目をしばたかせた。 「それだ。」 捜査員は首をかしげて岡田を見る。 「そうだ。どれだけの歳月をかけて準備をしてきたのかは知らんが、それがこうも立て続けに当局に踏み込まれるなんて、向こうにとったらしくじり以外のなにものでもないはず。」 「そうで…

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184.1 第173話【前編】

3-173-1.mp3 時刻は正午となった。携帯を見た椎名は、力なく首を振った。 「梨の礫か…。」 「こうなったからには、朝戸は捨てます。朝戸は発見次第排除お願いします。」 百目鬼に椎名が応えた。 「朝戸の合図を持って事が始まるんだろう。」 「私の統制下で事を起こす分には、それは制御可能ですが、事態はそうではありません。なので危険は排除しましょう。」 百目鬼は隣に居た片倉と目を合わせてひと言。 「わかった。」 これに椎名は頷いた。 「逮捕とか考えなくて良いです。その場で排除してください。」 「って言ってもな、俺らはそんなに簡単に民間人を殺傷できんのだよ。」 「なにも殺せと言っていません。朝戸を発見次第、片腕、片足を打ち抜いてください。物理的に何もできなくさせます。」 随分具体的な指示だな。そう呟いた百目鬼だったが、これに関しては椎名の言ったとおりに行動するよう現場に指示を出した。 「ん?どうした。」 ふと椎名を見ると彼はしきりに目をしばたたかせたり、擦ったりしていた。 「すいません。まつげか何かが入ったようです。トイレで顔洗ってきていいですか。」 「ああ。」 椎名は監視員と一緒に部屋から出て行った。 ドアを閉める音 「さてどうしたもんか。」 「どうしたもんでしょうね…。」 片倉が浮かない顔で百目鬼に応えた。 「まぁ作戦開始の合図を出せない状況さえ作ってしまえば、テロの筋書きを壊せるわけだか…

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183.2 第172話【後編】

3-172-2.mp3 腕時計に目を落としていた男が顔を上げると、前に居た男が頷いた。 ガラガラガラっと民泊の玄関扉を開くと、どこからともなく二人の背後から6名程度のアウトドアウェア姿の男らが現れ、物音ひとつ立てずに宿の中に全員流れ込むように入っていった。 「ごめんくださーい。」 「はーい。」 しばらくして奥から宿の主人が現れた。主人は目の前に突然屈強な男らが大勢現れたことに、驚きのあまり腰を抜かした。 「こちらに朝戸さんって方、泊まってらっしゃるでしょ。」 「あ、あ…。」 声すら出せない主人の驚きようだ。 「どちらに居ますか?」 この質問に主人はなんとか首を振って応える。 「わからない?」 これには頷いて応えた。 「そんなはずはないんだよなぁ。」 ちょっと中調べさせてもらうよと言って、主人は猿ぐつわをされ、両手両足を縛られた。 「はじめるぞ。」 リーダー格の男が握った拳を広げると、全員が宿の中に散らばった。彼らは手に拳銃のようなものを持っていた。 ただの民泊だ。朝戸を探すと行っても、時間はかからない。リーダー格の男は主人を前にどっかと腰を下ろして、報告を待った。 先ず、一階の捜索をしていた者たちがこちらに戻ってきた。彼はリーダーに向かって首を振る。 「わかった。ここで待機せよ。」 「了解。」 それから間もなく二階の捜索をしていた者たちが戻ってきた。彼らも首を振った。 「何だって?」 …

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183.1 第172話【前編】

3-172-1.mp3 「わかりました。公安特課が一時的に居なくなる隙を狙って、突入します。」 「現場の報告によると、今現在、対象の民泊で働いているのは、そこのオーナーただひとり。利用者も朝戸一名や。」 「環境は整っているというわけですね。」 「ああ。ほうや。事前に潜入しとったトシさんが見る限り、特段、武装しとるふうには見えんかったようや。が、油断は禁物。施設にどういった仕掛けが施されとるかわからんしな。」 「了解。」 ふと神谷は時計を見た。時刻は8時20分だ。 「こちらは0830(マルハチサンマル)をもって拠点制圧を開始します。」 「頼む。」 神谷は側の一郎にその旨を即座に指示した。 「アルミヤの方は何か分かったか。」 「金沢駅近辺にあった奴らの痕跡が一斉に消えました。」 「消えた…。」 「はい。攻勢の前触れかと。」 「それは自衛隊の方も把握しとれんろ。」 「勿論です。ただ…。」 「ただ、なんや。」 「例の影龍特務隊が気になりまして。」 「気になるとは。」 「中国語で会話をするビジネスマン風の人間がちらほらあるようです。」 「金沢駅にか?」 「はい。同様に観光客も居ます。」 「…わかった。頃合いを見てその中国人らに声をかけるようこちらから現場に指示を出す。」 「はい。」 「神谷。ところでお前は今はどこや。」 「機密上それは言えません。」 神谷は電話を切った。 昨日の天気が嘘のようだ。雲の切れ目からまばゆいかぎりの日の光…

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182 第171話

3-171.mp3 - 椎名はテロ実行直前までチェス組と連携し彼らをエスコートする。そこに警察は介入しないこと - 実行直前に公安特課の出番をつくるので、相応の人員を用意すること - 空閑と朝戸にはしっかりと専任者を配置し、勝手な動きをしないよう監視を強化すること - サブリミナル映像効果を少しでも薄めるため、こちらで用意した動画をちゃんねるフリーダムで短時間で集中的に配信すること - テロは爆発物によるものであるはず。可能性を徹底的に排除すること - 朝戸がテロの口火を切る行動をし、その後にヤドルチェンコがウ・ダバを使ってさらにそれを派手なものにする手はずである。したがってウ・ダバらしき連中の行動はつぶさに報告を入れること - その他現場サイドで気になることがあればすぐさま椎名に連絡し、その判断を仰ぐこと これが当初、椎名から警察側に要請されていたことだ。 空閑が保持してるであろう鍋島能力に関することも、今回の警察が椎名を隔離することも一切取り決めがない。 「だからと言ってここで椎名を完全隔離ってのは…。」 百目鬼は困惑した。 「理事官。椎名はまだ何かを企んでいます。」 腕を組んで片倉の顔をちらっと見た百目鬼は大きく息をついて視線を逸らした。 「椎名と話してくる。」 ドアが閉まる音 「空閑は鍋島能力を持っている。これは間違いないか。」 しばらく間を置いて椎名。 「間違いないかどうかは私にも分かりません。どうやらそのようだ…

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181.2 第170話【後編】

3-170-2.mp3 「っくしょん!」 パソコンの前に座ったままで目を瞑り、軽く睡眠をとっていた椎名はくしゃみによって目を覚ました。 自分の体調について尋ねる声はない。椎名を監視しているはずの片倉や岡田といった連中も今は眠っているのかもしれなかった。 しかしこちらから向こうの様子は見えないので迂闊な言動は慎むべきだ。とりあえず椎名はSNSのタイムラインを流し読みすることにした。 ハッシュタグ立憲自由クラブでフィルタリングされたそこには、日章旗と旭日旗が入ったアイコンがよく見られる。その中で椎名は「日本大好き」という名前のアカウントが時々ポストしているのを発見した。 やるしなかない 戦うしかない 完全にもう俺らは米帝の植民地だ 出たとこ勝負でもいいじゃないか 全ては行動あるのみ 何か薄ぼんやりとした何かを鼓舞するポストだ。 椎名は即座にこのポストを縦読みする。 ーや た か で す 続けて日本大好きアカウントは以下のポストをした。 川岸からの合図で動くとしよう ー川岸…岸…。騎士…ナイトか。ナイトの合図で始まると言うことだな。 桃は未だ見ず ー桃…? 椎名は一瞬考えたが、すぐにそのポストの意味を把握した。 ー桃…ピンクか…。ピンク稼業はヤドルチェンコの表の姿。そうか、ヤドルチェンコの行方は矢高もまだ把握できていないか…。 ー上々だ。これは面白くなってきた。 「お、椎名起きてたか。」 タイムラインを…

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181.1 第170話【前編】

3-170-1.1.mp3 金沢市郊外の築古マンション。その一室にウ・ダバの構成員の一部が潜んでいた。 「おい起きろ。」 هيه استيقظ 肩を小突かれたアサドはやっとの思いでその目を開いた。 「もう6時だ。いつまで寝てんだ。メシを食え。」 إنها الساعة السادسة بالفعل. كم من الوقت نمت؟ كل الطعام. 「ああ、すまない。」أه آسف. アサドの目の前の男性は苛立っていた。 この部屋の間取りは2LDK。アサドが目を覚ましたこの部屋には、大型のアタッシュケースのようなものが多数置かれている。 「早くしろ!」أسرع - بسرعة! 慌てて身を起こしたアサドはリビングダイニングの方へ向かった。 そこには朝食の用意を命じる今ほどの男の他に4名。髭面の男達が円を描くように床に座って何かの興じているようだった。 ふとアサドはそこに目をやる。するとそこには日本円の紙幣の束が積み重なっていた。 「続いては昨日の大雨に関するニュースです。」 テレビがついていた。 石川県の地域のニュースのようだ。昨日の大雨は金沢市の一部で浸水の被害をもたらした。しかしその後雨は収まり、金沢市と野々市市に出されていた大雨洪水警報は注意報に切り替わった。一夜明けた金沢の街の様子を、この朝早くから現地リポートしている。 「しかしなんでここで雨が止むかね。」 ひとりの男がぼやくとそれに応える者があっ…

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180.2 第169話【後編】

3-169-2.mp3 「拉致被害者を全員返還ですと!?」 「はい。このことはこちら側に陶晴宗を引き込んだ、あなたの功績に依るものが大きいですよ。」 応接用のソファに座り正対する仲野の身体がどこか震えているように見えた。 「しかし、冒頭申し上げたとおり今回のテロを制圧することが条件です。」 「…鵡川総理はなんとおっしゃてらっしゃるのですか。」 「総理には私からまだ詳細をお話ししていません。」 「えっ?」 「仲野先生のご意見を拝聴した上で、総理の決断を仰ごうと思いまして。」 「どうして…。私の意見なんぞ、この段階では必要ないでしょう。」 「いいえ。」 こう言うと静かに櫻井官房長官はソファを立ち、床に座り直した。そして両手をついてそのまま深々と頭を垂れた。 「仲野康哉先生。鵡川内閣の特命担当大臣に就任ください。」 「いや待ってください。私は野党前進党の幹事長です。貴党から適任者を選抜してください。」 「いいえ。この拉致被害者返還交渉特命大臣は、ツヴァイスタン一国との交渉だけでなく、その背後に居る旧宗主国ロシアとの調整作業も重要な任務となります。しかしながら我が党には先生ほどのロシア通はいません。ここは先生以外の適任はいません。」 「何言ってんですか。貴党にもロシア通は何名かいらっしゃいます。」 「彼らは駄目です。」 「どうして。」 「理由は二つあります。先ず一つ。先生は私ども政府側の人間が働きかけないでも国益を最優先に考えて、陶の調略に協力くださ…

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180.1 第169話【前編】

3-169-1.mp3 今回のテロ計画はオフラーナの暴走であり、政府は一切関与していない。 またそのテロ計画をツヴァイスタン人民軍は、民間軍事会社アルミヤプラボスディアをして、阻止せしめようとしているわけだが、その内容はテロ実行部隊の殲滅を企図している。これはオフラーナの実働部隊であるウ・ダバの無力化のためで、この作戦で人民軍は、オフラーナに対して優位に立つことを画策している。 つまり今回のテロ計画を発端とした武力抗争は、日本を舞台にしたツヴァイスタン人民軍と秘密警察オフラーナとの権力闘争である。 そうツヴァイスタン外務省は認めた。 しかしオフラーナと人民軍、この二つの組織がツヴァイスタンの実質的な支配を行っている現状、政府指導部は彼らに歯止めがかけられない。ロシアに二つの勢力の仲を取り持つよう相談はしたが、他国の内政に関わる筋合いはないと突っぱねられた。 日頃、宗主国面して内政の様々に干渉してくるくせに、いざというときに知らん顔を通されたわけだ。 知らん顔ならまだしも、かの国はオフラーナと人民軍の双方の過激派に肩入れして、対立を煽ってすらいるようにも見受けられる。 このロシアに対して、ツヴァイスタン指導部も以前より不満を抱えており、近年の西側諸国との接近となっている。日本との友好関係構築もこの流れから来たものであると確認が取れた。 ともあれオフラーナによる目下のテロ計画は、20時間後に迫っている。先ほど指導部はオフラーナにテロ計画の中止を指示する文書を発出し…

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179 第168話

3-168.mp3 深夜、都内の静かな高級ホテルの一室で、緊迫した会議が行われていた。 窓の外は漆黒の闇に包まれ、部屋の中の緊張が余計に際立っている。 ツヴァイスタンの代表者、エレナ・ペトロワとイワン・スミルノフは、不安と戸惑いを隠せずにいた。彼らの目的は、日本でのオフラーナと人民軍の対立を終わらせることだったが、予期せぬ展開に直面していた。 一方、日本政府側の代表、内閣情報調査室の関孝雄と陶晴宗は、冷静な表情を崩さずにいた。 特に陶は、この状況における重要な駒であることが明らかになっていた。 「彼は貴国のオフラーナの協力者です。」 こう関が静かに告げたとき、エレナとイワンの表情には驚きが浮かんだ。 彼らは日本国内で起こり得るオフラーナと人民軍との抗争を止めるための情報を求めていたが、この新たな事実によって彼らの計画は複雑なものとなった。 エレナが陶に質問を投げかけると、彼からの答えは静かながらも重いものだった。 朝倉忠敏という名前が話題に上がり、彼の影響力がツヴァイスタンにまで及んでいることが明かされた。朝倉は、日本国内でのオフラーナの活動に深く関わっており、その力は計り知れないものだった。 陶の話はさらに続いた。彼は朝倉の後継者としての地位を確立しようとしていたが、ウ・ダバを利用したテロ計画が日本の治安機関に露見し、彼はその場で全てを白状したという。 深夜に行われるこの会議は、それぞれの代表者が持つ複雑な思惑と計算によって、さらに重苦しい雰囲…

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178.2 第167話【後編】

3-167-2.mp3 現在 エレナは窓辺に立ち、東京の輝く夜景を眺めていた。 「姉さん。これが外の世界よ。」 冷めた声で独りごちる彼女は、その美しさに心を奪われることはなかった。 彼女の心は、姉のアナスタシアが連行されたあの日に囚われている。 彼女が最後に交わしたあの切ない微笑みを、エレナは決して忘れられなかった。 彼女はツヴァイスタン外務省の国際戦略調整局に所属し、国際政策の策定や戦略的情報分析、危機管理などの重要な任務に就いている。だがそのすべての知識と能力をもってしても、オフラーナの壁は厚く、姉の安否についての情報は一切手に入らなかった。 彼女がいまどこで、どうしているのか― ―生きてさえいるのかさえも。 ホテルの部屋でひとり、エレナは姉が引き起こした「外を見たい」という単純な願いが、どれほどの結末を迎えたかを思い返す。 アナスタシアが秘密警察に連行されるシーンが、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。 そのすべての原因を作ったのは仁川である。 彼女は仁川を憎んでいた。 彼がいなければ、姉は今も自由だったかもしれない。 彼がいなければ、彼女が抱いていた外の世界への憧れを、あそこまで募らせることはなかったかもしれない。 エレナは、窓から東京の夜景を眺めながら、家族の影響と自分の感情との間で揺れ動いていた。 彼女は、なぜアナスタシアが仁川にそのような愛情を注げるのか理解できなかった。 両親の考え方が、今の彼女の心にも影を落としていた…

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178.1 第167話【前編】

3-167-1.mp3 6年前 仁川征爾は査問委員会の厳粛の中心に座り、委員たちの厳しい視線を一身に受けていた。 部屋の空気は緊張で張り詰めている。オフラーナの制服を身に纏った委員たちの表情は、仁川の忠誠心を疑うかのように冷ややかだった。 「では始めよう。」 委員長が静かに宣言し査問が始まる。 問いは鋭く、彼の過去をえぐるようだった。仁川の答えは慎重に選ばれ、かつ相手に悪感情を抱かせないように自信をひた隠しにしていた。彼は自分の二重スパイとしての任務を隠し続けながらも、オフラーナという組織への忠誠を誓うような言葉を巧みに操っていた。 この場はツヴァイスタン人民共和国オフラーナによる査問委員会だ。 会議室の壁に掲げられた国旗の下で、仁川は訓練された自らの能力と冷静さを示し続ける。 彼の真の任務、つまりツヴァイスタン人民軍の情報部員としての役割は、心の内にしっかりと秘めながら。 査問委員会が終わりに近づくと、仁川は内心でほっと一息ついた。 「査問委員会は、仁川征爾の疑いは晴れたと結論づける。」 これが、日本に向けて潜入する最終テストだった。 仁川はこれから日本での新たな任務を完璧にこなすための準備が整ったことを確信していた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ひとりの女性がドアの向こう側で、躊躇いながらも決心を固めていた。彼女はそのドアを静かにノックした。 「どうぞ。」 仁川の声が部屋の…

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177.2 第166話【後編】

3-166-2.mp3 小便器の前に立って用を足す椎名の背後から声が聞こえた。 「Присоединение капитана к войскам завершено.部隊合流完了。」 「Я слышал, что продукт был передан стороне "У Даба".例のブツはウ・ダバ側にわたったらしいな。」 「Извинения.申し訳ございません。」 「Никогда больше не делайте так плохо надписи на дне кофейной чашки и не присылайте мне информацию. Это оставляет следы.コーヒーカップの底面に文字を書いて俺に情報を寄越すような下手なやり方は二度とするな。 痕跡が残る。」 「Однако слежка настолько сильна, что информация не может быть передана майору.しかし監視の目が強くて、少佐に情報を流せません。」 「О чем вы говорите. Так можно было бы обмениваться информацией.何言ってるんだ。こうやって情報のやりとりが出来ているだろう。」 「Такой подход также опасен.このやり方も危険です。」 「Временные ленты социальных сетей постоянно п…

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177.1 第166話【前編】

3-166-1.mp3 立憲自由クラブによる明日の 金沢駅での決起集会の予行演習。これを阻止せよ。そう椎名に指示を出して1時間ほど経過した。 現在は4月30日木曜。時刻は20時になろうとしていた。 「片倉班長。」 岡田が片倉の側にやってきた。彼はベネシュが乗ったと思われるハイエースの動きを捕捉するべく、相馬からの情報を元に所轄署との連携をとっていた。 「相馬の抑えたハイエースですが…。」 岡田の表情が成果を物語っていた。 「駄目やったか。」 「早々に乗り捨てられてました。」 敵も然る者。そう片倉は言った。 「こちらの動き、気づかれたか。」 「それは分かりません。車が乗り捨てられていたのは金沢駅から1キロ程度離れた病院の駐車場です。発進から間もない地点での移動手段の変更ですから、当初から予定されていたものかもしれません。」 「やるな…。」 で、相馬は今何をしてると片倉は聞いた。 「彼は古田さんと自衛隊の連中とで金沢駅のPBに居ます。」 「PBで何をしとる。」 「予想されるテロ行為への対応可能性を協議しています。」 「ほう…。」 「機動隊の協力が欲しいとの申し出でしたので、私から機動隊へ繋いでおきました。」 「しかし…県警だけやと無理じゃないか。」 「と言いますと?」 「想定されることから逆算して。県警の所帯だけじゃ役不足にならんか。」 「それは…。」 「まぁ心配すんな。そのあたりはいま松永課長が手を回しとる。」 …

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176.2 第165話【後編】

3-165-2.mp3 「Хорошо. Но будьте умеренны. Не поднимайте шума. О, да. Это обнадеживает. Я бы предпочел, чтобы вы считали это демонстрацией силы с нашей стороны.そうか。しかしほどほどにしておけよ。決して騒ぎを起こすなよ。ああそうだ。それは頼もしいな。むしろ我々の力の見せ所と思って欲しい。」 「Да, я вижу. Вот этот.ああ見えた。あれだな。」 「Но... что это за пробка? Будет ли завтра в это время так же оживленно?しかし…なんだこの渋滞は。明日のこの時間もこんなに混雑してるのか?」 「Понятно, дождь тому причиной... Но, наверное, так и будет, когда я поеду домой в выходные.なるほど雨が原因か…。だが週末の帰宅時となるとやはりこのような感じになるのだろうな。」 ーロシア語…。週末の帰宅時間を気にしている? 白人男性の側にやってきた相馬は彼が話す言葉をかろうじて聞き取ることができた。 「Японцы хорошо себя ведут. Они никогда не врываются в дом. Нам стоит поучиться это…

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176.1 第165話【前編】

3-165-1.mp3 四畳半程度の部屋の真ん中にあるデスクでラップトップ型PCを向かい合うのは椎名賢明だ。インカムをつけた彼はビデオ会議ツールで外の捜査本部のスタッフとコミュニケーションをとっていた。 ドアをノックする音 「はい。」 資料ですと言って、男が紙の束を持ってきた。 椎名はそれをご苦労様ですと受け取った。 続けて彼は紙コップに入ったコーヒーを椎名の前に差し出した。 これには椎名は紙コップに目を落とし「ありがとうございます」とだけ言ってそれを受け取った。 男は頭をぺこりと下げ、椎名とはなんの会話もせずにそのままこの場から立ち去った。 「何や。コーヒー頼んでいたのか。」 片倉の声がイヤホンから聞こえた。 「はい。」 椎名がこう応えても片倉は何も言わなかった。 コーヒーをすする音 視線を部屋の隅に移す。そこにはこちらの様子を覗うカメラがあった。 「今のところ、チェス組の動きはどうや。」 「空閑はホテルで待機、朝戸は例の民泊にまだ滞在しています。」 片倉は岡田を見た。椎名の証言が現在公安特課が把握している現状と一致していたため、岡田は首を縦に振った。 「ヤドルチェンコはどうや。」 「彼の居場所は把握できませんが、ウ・ダバがそろそろ動く時間です。」 「ウ・ダバが動く?」 「はい。」 「何をする。」 「物資の補給です。」 「なんや物資って。」 「武器です。」 「どこで受け渡しする。」 「それは…

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175 第164話

3-164.mp3 「久しぶり。トシさん。」 取調室の中に入ってきたのは片倉だった。 それを目で追いながら古田が言った。 「なんや、なんでお前がここに居るんや。」 「いろいろあってな。」 「ちっ。」 古田は舌打ちして片倉から目をそらした。 「何け。」 「お前もあれか。」 「何?あれって。」 「おめぇもワシのこと厄介払いしとるんか。」 片倉はあきれ顔を見せた。 「まー厄介や。」 「あん?」 「厄介やわいや、んな直ぐ一歩歩いたらさっきのこと忘れるんやしな。」 「おいおめぇ人のこと呆け老人呼ばわりしやがって。」 「トシさん。俺だって受け入れるのに苦労しとれんて。」 「ふざけんなや!くそったれが!」 「待て待て!」 古田は立ち上がり部屋から出ようとする。しかしそれは片倉によって力ずくで押さえ込まれた。 「トシさんだけじゃねぇんげんて。」 「は?」 「石大病院通院者にトシさんのような症状でとる人間多数。」 「え…何やって…。」 「おそらくこれはすべて光定公信による人体実験の影響や。」 「人体実験?」 片倉の制止を振り切ろうとしていた古田だったが、ひとまず落ち着きを取り戻した。片倉の手を振り払って彼は席に着いた。 「悪い、俺もなんかイライラしてトシさん煽るようなこと言っちまった。」 「んと感じ悪いわ。」 「すまん。」 「…第2小早川研究所の件か。」 「何でそれを…。」 「ワシなりの捜査網に引っかかった…

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174.2 第163話【後編】

3-163-2.mp3 「あり合わせで用意しました。」 そう言って出されたのはハンバーガーだった。 「自分、奥にいますのでごゆっくり。」 マスターが奥に引っ込んだを見届けてふたりはそれを頬張った。 「うまい。」 京子も三波もその確かな味に唸る。 「このボストークって最近映えるとかで有名な店だろ。」 「はい。」 「この手の雰囲気重視の店って、どっちかっていうと味は微妙ってのが多いけど、ここは違うね。」 「そうでしょ。しっかりおいしいんです。」 「ランチですとかいってワンプレートのもん出されても、え?こんだけで1,000円するのって量の店もあるじゃん。でもほらこのハンバーガー、普通に大きいんだけど。」 「まかないっていうのもあるかもしれませんよ。」 「あ、そうか。」 「ってか肉がおいしいですよ。これ。よくみたら網で焼いてる。」 「本当だ。くそー…しっかしなんか悔しいな。」 「何がですか?」 「なんか女子とかカップルとかでキャッキャ言って映えばっかり気にされる店にされてんじゃん。」 「なんですか三波さん。私のことそのキャッキャしてる女子って言ってんですか。」 「いやそうじゃなくて。もっと俺らみたいなおじさんにも利用しやすい感じにしてくれって言ってるだけだよ。」 「そんなの構わずガンガン利用すれば良いじゃないですか。」 「出来るわけ無いだろ。」 「えーでもいろんな人が利用して、その店の雰囲気って良くなっていくと思いますよ。」 「なに…

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174.1 第163話【前編】

3-163-1.mp3 「失礼します。」 スライドドア音 「あぁ京子か。」 身支度をする三波の姿があった。 「もういいんですか?」 「まぁ、正直良いか悪いかわかんない。主治医がいなくなっちまったからな。」 京子は返す言葉を失った。 「どこまで知ってる?」 三波の質問の真意を測りかねる京子はただ首を振って応えるだけだった。 「で俺から根掘り葉掘り聞き出してやろうってことでここに?」 「そんなところです。」 彼はため息をつく。 「残念だけど、今回ばかりはお前に話せることはない。」 「どうしてですか。」 「俺らのような民間人がしゃしゃり出るのは控えた方が良い。」 「自粛ですか。」 「まぁそんなところだ。」 「三波さんもそんなことを…。」 「俺も?」 「…はい。」 「なんだその言い方。何と一緒にしてる?」 京子はネットカフェ爆破事件を報じるメディアが、地元石川のメディアに留まっていることを三波に伝えた。 「私が調べたところ、警察からの要請で報道協定を結んだとかじゃないんです。各社が自主的に報道していない。」 「報道各社が自主規制か…。」 「はい。」 「どうせそんなことしてもSNSですぐに広まる。放っておけよ。既存メディアはやっぱりクソって事で、ウチみたいなネットメディアの信用性が高まるだけ。商売的にはいいんじゃん。」 「でもあり得ないと思います。」 身支度を終えた三波はベッドに腰をかけた。 …

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173.2 第162話【後編】

3-162-2.mp3 「なに?突入した!?」 朝戸班からの報告を受けた岡田は大きな声を出した。 普段大きな声を出さない彼がこのような反応を見せるのは珍しい。テロ対策本部の中のスタッフが一斉に彼を見た。 古田が朝戸が泊まる宿近くのアパート部屋を何件か当たったところ、屈強な男らがそこに合流。突如としてその中の一室に踏み込んだとの報告だった。 「それってまさかトシさんが?」 「いいえ。どうもそうじゃないようです。古田さんはその場に越し抜かすように座り込んでしまってました。」 岡田は片倉を見ると彼はそれにうなずいて応えた。 「トシさんは。」 「なんかぼーっとしてます。」 「保護しろ。」 「え?」 「保護してここまで連れてこい。事情を聞く。」 「わかりました。」 「朝戸は引き続き監視するんだ。」 「了解。」 電話を切った岡田が頭を振るのを見て、片倉は口を開いた。 「自衛隊か。」 「おそらく。」 「ってことはアルミヤプラボスディアがそこに。」 岡田は二度うなずいた。 「とうとう動いたか。」 「テロを明日に控え、いつ動いてもおかしくありませんから。」 百目鬼が険しい顔をした二人の元に戻ってきた。 「いま報告が入った。トシさん自衛隊と接触したらしい。」 「お耳が早いようで。」 「なんだお前らも知っていたのか。」 「こちらもいまその連絡が入ったところです。」 「ったく…何やってんだあの人。」 「わかりません。一旦…

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173.1 第162話【前編】

3-162-1.mp3 「もぬけの殻…だと…。」 「はい。」 赤石は頭を抱えた。 「監視していたんだろう。」 「はい。常時監視していました。」 「どうしてこんなことが起きる。」 「アパートの一階の床下に立坑発見。」 「立坑…。」 「現在、中を捜索中です。」 「十分に注意されたい。」 「了解。」 電話を切った赤石は歯ぎしりした。 「アルミヤプラボスディアの手がかりが消えた…。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「陽動成功。」 「よくやった。」 「引き続き地点デルタにて待機する。」 「ではこちらも合流する。」 「了解。」 短いやりとりをしてベネシュは携帯電話を机の上にそっと置いた。 そして備え付けの電話でフロントに連絡を取る。 「いかがしましたか。」 「ちょっと飲み物をこぼしてしまってね。なにか拭くものが欲しい。」 「かしこまりました。」 間もなく男が部屋にやってきた。 「そろそろ俺もここを出る。」 「外に見張りらしき人間がいます。」 「何名だ。」 「二名です。」 ベネシュは苦笑した。 「舐められたもんだな。」 「はい。」 「引きつけておいてくれ。」 男は頷いた。 「しかしこの雨、なんとかならんものか。」 「この近くに浅野川という川があります。そこがひょっとすると氾濫するかもしれないとニュースになっています。」 「氾濫?」 「ええ。なので移…

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172.2 第161話【後編】

3-161-2.mp3 「国土交通省と気象台によりますとこの大雨で石川県の金沢市を流れる浅野川は芝原橋観測所と天神橋観測所で「氾濫危険水位」に達しました。国と気象台は洪水の危険性が非常に高まっているとして「氾濫危険情報」を出して厳重に警戒するよう呼びかけています。自治体の避難情報を確認するとともに浸水のおそれのない場所に移動するなど、安全を確保するようにしてください。」 宿を追い出された古田は避難所である近くの小学校にいた。 避難所にあるラジオから、現在の大雨の状況が古田の耳に入ってきていた。 「代わりの宿は?」 「一応抑えれたんですが、この雨ですから。」 「タクシー呼ぼうか。自分の知っとるタクシー会社なら来てくれると思うよ。」 「あ、えぇ。いや、一応仕事の関係の人が迎えに来てくれるって事になりまして。なんでしばらくだけここに居ても良いですか。」 「しばらくって?」 「迎えに来るまで。」 「ラジオでも言っとるように浅野川の上流で氾濫危険水域やって言っとるし、すぐにここの辺りもそうなる。雨が弱まれば少しは安心なんやけど…。」 「スマホで雨雲レーダー見たら、あと20分ほどで雨脚は弱まるみたいですよ。」 「雨が弱まってもすぐに水が退くわけじゃないからね。危険には変わりないよ。用心に越したことはない。」 「確かに。」 それにしてもと古田はこの避難所にいる人間が少ないのではないかと指摘した。 これに対応の男は首を振る。 「この辺りは高齢者が多くて、まぁ動き…

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172.1 第161話【前編】

3-161-1.mp3 卯辰一郎の朝戸調査報告は第一報からちょうど6時間後の16時に行われた。 第一報で明らかになった人物、朝戸の妹殺害のもみ消しを図った疑いのある白銀篤についてである。 「ある日忽然と姿を消した?」 「はい。家族全員失踪。奴が済んでいた家は荒れ放題です。白銀の自宅の周辺住民曰く、近所付き合いがほとんど無い家庭だったようです。なので気がついたら家の草が生えっぱなしになって荒れていたと。」 「何か手がかりのようなものは。」 神谷の問いかけに卯辰一郎は首を振って応える。 「ヤサに踏み込ませたんですが、ただ散らかっているだけでめぼしい情報は何一つありませんでした。」 「くさいな。」 「はい。プロの仕業かと。」 「まさか朝戸が白銀を始末したとか?」 いやそんなはずなはい。朝戸が白銀を始末すればその復讐心は満たされる。彼のゲームはこれで終わりだ。神谷は自分の発言を即座に撤回しようとした。 「カシラ。実は自分もひょっとしてと思っていまして。その線。」 「え?」 一郎の言葉は神谷にとって意外だった。 「うん?どういうこと?」 「いや、白銀篤って名前は出てくるんでが、朝戸沙希をひき殺したと言われる白銀の息子ってのが、名前も顔写真もなにも出てこないんです。」 「そういやそうだな…。名前も顔写真も見ていない。」 「はい。おかしいと思いませんか。朝戸沙希に直接危害を与えたのは白銀息子です。その人物の情報が得られず、こちらに入ってくるのは…

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171 第160話

3-160.mp3 「県内は前線の影響で大気の状態が非常に不安定になり金沢市では大雨となっていて、金沢市昭和町では午後3時半までの1時間に55ミリの非常に激しい雨が降りました。気象台と県は金沢市に土砂災害警戒情報を発表し、土砂災害や低い土地の浸水、河川の増水に警戒するよう呼びかけています。 金沢地方気象台によりますと、30日の県内は梅雨前線の影響で大気の状態が非常に不安定になっていて、金沢と野々市市では大雨になっています。 金沢市昭和町では、30日午後3時半までの1時間に55ミリの非常に激しい雨が降りました。 30日午後4時半時までの3時間に降った雨の量は金沢市昭和町で90ミリ、野々市市で50ミリなどと急速に雨量が増えています。 金沢市と野々市市には午後3時40分ごろまでに大雨洪水警報と土砂災害警戒情報が出されています。 県内はこのあとも大気の不安定な状態が続き、31日にかけて1時間に降る雨の量はいずれも多いところで加賀地方で40ミリ、能登地方で30ミリと予想されています。」 スマートフォンで地域のニュースを見ていた相馬はそれを閉じた。 彼は金沢駅の構内にあった。 現在時刻は16時。そろそろ学生たちが帰宅の途につきはじめる時刻であるが、ここの人手はまばらだった。 この大雨により金沢駅発着の電車は全線運転を見合わせているためだ。 相馬はため息をつく。 ふと外に視線を移すと冴木が姿を消したホテルがあった。 「わかった。そのホテルに捜査員を派遣する。」155 …

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170 第159話

3-159.mp3 テロ対策本部に戻ってきた椎名を迎えたのは、百目鬼をはじめとするスタッフたちのただならぬ殺気だった。 「外の様子はどうやった?」 片倉が椎名に声をかける。 「酷いですね。こんな雨いつぶりでしょうか。」 「いつぶり?とは?」 (あっ…。) 「あぁ西日本豪雨ってのが2年前にあったっけ。あいつも酷かったけど、最近こんな感じの雨の降り方多ないけ?ある地点で局所的にドバーってバケツひっくり返したみたいに降って、んでしばらくしたらからーって晴れてさ。」 「…確かに。」 「あれか。気候変動ってやつか。」 「正直それについては自分は懐疑的です。」 「へぇ。こんな感じなんに?」 片倉は窓の外を見る。 「ええ。」 「まぁ気候変動なんて地球規模の危機よりも、いまは目下の危機の対応や。気候変動については今の危機対応が終わってから、ゆっくりと議論するとしようか。」 片倉が椎名と何気ないやりとりをすることで、対策本部の重苦しい空気感は多少軽くなったような気がした。 継続し続けるこの場の緊張感に世間話という一拍を入れることで、スタッフたちの注意が別の方に向いたのかもしれない。 「で、どう指示を出す。」 「ビショップに連絡をとります。」 「空閑か。」 「はい。彼もこの天気を見て焦っていることでしょう。」 「ほうやろうな。」 片倉が同意を示したそのとき、椎名の携帯に空閑からのメッセージが入ってきた。 「今電話できるか。」 …

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169 第158話

3-158.mp3 「最上さんを狙ってノビチョクを盛った…。」 「はい。それが公安特課に最も混乱をもたらせると判断して、朝戸に実行させたそうです。朝戸は光定によって最上が白銀篤であると刷り込まれていたそうです。」 片倉はため息交じりに呟いた。 「つくづくクソやな…。」 「その肝心の朝戸の妹をひき殺した人間なんですが、それは白銀で間違いは無いそうです。」 「いやそんな奴は警視庁にいない。これは確認できた。」 「はい白銀はサツカンでも何でもありません。ただの民間人です。」 「なに?」 「これはさっき椎名が理事官に言ったように、紀伊によるでっち上げだったようです。紀伊が朝戸の妹の事故死を独自で検証。結果、それらしき車両を発見。ここで所轄署に黙って紀伊は事件をもみ消すことが出来るから協力せよと被疑者、白銀と接触。車両の写真を撮影した後、白銀自身を口封じのため殺害した。そして所轄署に噂を流した。警察幹部の白銀篤という人物の倅が朝戸の妹をひき殺した。しかしそれを圧力をもってもみ消していると。こうすることで所轄署内部の不穏な雰囲気を作り出します。その空気を敏感に感じ取った朝戸は架空の被疑者である白銀篤の存在を信じ込み、奴に対する復讐心を募らせていったそうです。」 「…手の込んだ芸当を…。」 力なく電話を切った片倉は百目鬼に首を振った。 スピーカモードのそれに聞き耳を立てていた百目鬼はそれに頷いた。 「徹底的だな。あいつら。」 「はい。」 「椎名班は今どこだ。」 …

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168 第157話

3-157.mp3 自宅に帰った椎名が片倉らのテロ対策本部に出した指示は以下のものだった。 - 椎名はテロ実行直前までチェス組と連携し彼らをエスコートする。そこに警察は介入しないこと - 実行直前に公安特課の出番をつくるので、相応の人員を用意すること - 空閑と朝戸にはしっかりと専任者を配置し、勝手な動きをしないよう監視を強化すること - サブリミナル映像効果を少しでも薄めるため、こちらで用意した動画をちゃんねるフリーダムで短時間で集中的に配信すること - テロは爆発物によるものであるはず。可能性を徹底的に排除すること - 朝戸がテロの口火を切る行動をし、その後にヤドルチェンコがウ・ダバを使ってさらにそれを派手なものにする手はずである。したがってウ・ダバらしき連中の行動はつぶさに報告を入れること - その他現場サイドで気になることがあればすぐさま椎名に連絡し、その判断を仰ぐこと 「冴木はベネシュの部屋に入って、そのまま姿を消した。」 「...。」 「どうした?」 「奴らならあり得る。」 テロ対策本部に戻ってきた百目鬼の顔を片倉は見やった。 「そうかそういうことか…。」 椎名はひとりで納得しているようだ。 「そういう事ってどういう事や。」 「アルミヤの連中、このテロを全力で潰しに来る気だ。」 「え…。あんたさっき粛正とか言っとったけど。」 「訂正します。もう始まったようです。」 「始まった?なにが。」 「アルミヤプラボスディアとオ…

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167 第156話

3-156.mp3 出社した椎名だったが、やはり体調が優れないと言うことで今日は休むこととした。 「どこに向かっている。」 「とりあえず一旦家に帰ります。あてもなく車を走らせるのも、見つかったらリスクですから。」 雨脚が強くなっている。 滝のように降るそれはフロントガラスから見えるはずの景色を白いしぶきのようなもので覆い、視界は極めて悪い。 前方の車のストップランプが断続的に光る。 椎名の運転する車は減速せざるをえなかった。 「一体どれだけ降るんだ…。」 家に向かう間も雨が収まる気配はない。やがて携帯に通知が届く。 大雨警報だ。氾濫警戒情報も併せて知らされた。 「やめてくれ…。」 椎名はぼそりと呟いた。 雨粒が車体をたたきつける音が大きいためか、この彼の言葉に対する警察側の反応はなかった。そのときフロントガラスをはねた水が覆った。 「うわっ!」 「どうした!」 直ぐさま警察無線で椎名に連絡が入る。この呼びかけが椎名を引き戻した。 「あ…いや…ちょっと水はねにびっくりしてしまって…。」 「水はね?」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 百目鬼は部屋を出て行ったきり戻ってこない。富樫も椎名のPC解析のため別の部署にいる。 金沢北署のこの部屋の幹部は片倉と岡田。このふたりだ。 「うわっ!」 椎名の大きな声が片倉と岡田に届いた。 「どうした!」 片倉がすかさず呼びかける。 …

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166 第155話

3-155.mp3 「くせぇ…臭すぎる。」 「どうしました。次郎アニキ。」 「ほら見てみろよ。」 顔面に切り傷のようなものが十字に入った男に前に次郎は出力した紙を並べた。 「これが例の白人だ。」 次郎が指す白人はどうやら2日前の4月28日からこのホテルのスイートルームに泊まっているらしい。 雨澤が作り出した画像解析ソフトが、時間をかけずにそのことを次郎に示していた。 このホテルにはスイートルームは2室があり、一方はこの白人。そしてもう一方の部屋は先ほど雨澤が身の危険を感じた部屋であった。 部屋を利用するのは彼ひとりだ。来客はない。正直ひとりでは持て余す広さである。 彼は外出の際に荷物のようなものを持って出ることはない。またその際に誰かと一緒ということもない。 時折スマートフォンをいじりながら誰かと連絡をとりながら、ホテル内のロビーでくつろいだり、スイート利用者の特権なのかもしれないバーカウンターでウイスキーを飲むこともある。その時にも彼以外の人の気配はない。 しかし今日の朝、彼の宿泊する部屋にはじめて男がひとり訪ねてきた。 それが相馬が行方を捜していたサツカンの人間だった。 いままで白人以外、誰ひとり人の気配がなかったスイートルーム。そこにひとり来訪者が現れたことは象徴的でもあったが、その先がさらに次郎に疑惑を抱かせた。 来訪者である警察官。以降、彼の足取りが途絶えたのである。 「この来訪者はまだ白人の部屋に居るってことですか。」 「いいや。こ…

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165 第154話

3-154.mp3 椎名が乗り込んだ車は何事もなかったように、そのまま北署を出発した。 その様子を窓から眺めていた百目鬼が誰に言うわけでもなくつぶやいた。 「気づかれることを心配せず、椎名をおおっぴらに尾行できるだけマシになった。浮いた人員は別の方面に回せる。」 「油断は禁物です。」 片倉が苦言を呈した。 「心配してもどうしようもない。いずれにせよこれで椎名は丸裸だ。気楽にいこう。」 百目鬼が楽観的な見解を示したそのとき、椎名の車内に設置されたカメラからガサゴソと音が聞こえた。その場の百目鬼、片倉、岡田、富樫がモニターに視線を集中させた。 「椎名です。すいません。ちょっと体調を崩してしまって病院にいってました。え?あ、はい…今のところは…。いまそちらに向かっています。」 無断遅刻に関する勤務先への弁明だった。 「大事なことや。」 片倉は椎名の行動に納得した。 「片倉班長。」 岡田が片倉の名前を呼んだ。 「なんや。」 「この場でこんな相談をするのも何なんですが、気がかりなことがありまして。」 「いいよ聞くよ。言ってみろ。」 「何個かあるんですが。」 「なんだ?俺も聞く。」 百目鬼がそこに入ってきた。 いまここには普段接点を持てないほどの上位の存在である百目鬼、そして嘗てのバディ的存在である片倉の二人がいる。 今回のヤマはあらゆるところから重要情報がもたらされる。通常の公安業務とは比べものにならない。岡田の処…

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164.2 第153話【後編】

3-153-2.mp3 前進党幹事長、仲野康哉に呼び出された陶は議員会館の彼の部屋の前に居た。 ノック音 ドアが開かれ秘書の男性が彼を迎えた。 「先生はいま会議室でミーティング中です。先生の執務室でお待ちいただけますか?」 執務室に通された陶はソファに腰をかけた。 「もうしばらくしたら終わりますので、しばらくお待ちください。」 ドアが閉まる音 すっくと立ち上がった陶は窓際に立った。 衆議院第一議員会館8階のこの位置からは首相官邸と首相公邸が見える。 窓から視線を逸らし、左を一瞥すると壁側に三脚台に立てかけられた日章旗が目に入った。そしてそれを背にする形で仲野が執務する机がある。机の上には固定電話とデスクトップ型パソコン。紙の書類は少しだけ。無機質な印象があった。 「愛国精神だけでは政権は取れませんよ、先生。」 こう呟いたときだ。会議室の扉が開かれ仲野が部屋に入ってきた。 「あぁお待たせしました。」 どうぞと言われ陶は仲野とソファに座って相対した。 「今日は折り入って陶専門官に頼みがありましてね。」 「先生の頼みであれば何なりと。」 「先日のあなたの提案を参考にしました。」 「おお!」 「ツヴァイスタンと連携をとりたい。」 「ん?」 狂喜に満ちた表情の陶の顔が一瞬にして歪んだ。 「あれ?先生…。私はアルミヤプラボスディアを止めるために、そのツヴァイスタンの親分格であるロシアと連携しませんかと言った…

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164.1 第153話【前編】

3-153-1.mp3 雨が窓を打ち付ける。 電話が相手につながるまでの間、その様子を見ていた小寺はため息をついた。 「はい。」 「あ、明石隊長。小寺です。」 「聞いたよ。相手はもう勘づいているというわけだ。」 「はい。」 「取り逃がした連中は。」 「申し訳ございません。」 電話の向こう側から嘆息が聞こえた。 「巻かれました。申し訳ございません。」 再び小寺は謝った。 「やめろ。過ぎたことだ。で、突っ込んできた外国人は?」 「自ら命を絶ちました。警察の調べの前に。」 「なに…。」 「ベネシュとの関係は。」 「未だ判然とせず。」 「収穫無しか…。」 「はい。」 「ベネシュはいつからそのホテルに滞在を?」 「2日前からです。我々を巻いた外国人連中はベネシュと同じホテルに泊まっているわけではありません。奴らはどこからともなく集まってきました。」 「連中は何をしたんだ、そのホテルで。」 「分かりません。しかしベネシュの指示によるものであるのは間違いないでしょう。」 「だな。」 「ひとつご報告が。」 「なんだ。」 「公安特課もそのホテルに居ました。」 「公安特課も?」 「はい。」 「アルミヤプラボスディアに関しては警察はノータッチでとの話のはずだが。」 「それは三好に念を押してありますし、彼の上司もそれをちゃんと理解しています。」 「ということは、公安特課の監視対象もまた偶然、そのホテルに居た。」 「おそらく。」 「ア…

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163.2 第152話【後編】

3-152-2.mp3 ドアが開かれると襟元を緩めた40代後半と思われる男、それに続いて記録係が現れた。 彼は椎名と向かい合って座った。 「話は富樫から聞いた。俺が責任者の百目鬼だ。」 「責任者…。」 「ああ警察庁警備局公安特課課長補佐 百目鬼和成だ。本件の現場責任者だ。現場の指揮は俺に一任されている。」 警察手帳を見せながら百目鬼は椎名に言った。 「結論から言う。われわれ公安特課は椎名賢明。君のオファーを受け入れる。」 椎名は口をつぐんだまま、百目鬼の目を見る。 その場にいた記録官にとって途方もなく長い沈黙がその場に流れたような感覚を覚えた。 「どうした?」 「いえ…。」 「公安特課は君の提案を受け入れたんだ。少しは何か反応を見せたらどうだ。」 机の上に目を落とした椎名は頭を垂れた。 「ありがとうございます。」 またもその場に沈黙が流れようとしたが、百目鬼はそれを遮った。 「素直にどういたしましてと受け入れるのが正しい反応なのか、今の俺にとっては判断できない。」 「…。」 「ただ君がこちら側に立って協力するという提案は少なくとも今の我々にとって得られるところが大きい。そう判断した。」 「英明です。」 部屋のありとあらゆるものが凍り付いたかのように思える、緊張感あふれるこの場の空気は、冒頭の二人のやりとりによって溶解の兆しを見せた。 「まずは何をゴールとするか決めようか。」 富樫よりも高次の存在が現れた…

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163.1 第152話【前編】

3-152-1.mp3 「キンタイで椎名をパクっちまおうかとの話もあったが、その協議の最中、当の本人が出頭となったわけよ。」 椎名を取り調べている金沢北署に入った片倉らは、岡田と富樫に特高内での会議の内容を簡潔に報告した。 「出頭のタイミングといい、マルトクのスパイになりますという申し出といい、話が出来すぎとる。こいつは最高レベルの警戒態勢を敷かんといかんってことで、こちらの百目鬼理事官にもお越しいただいた。たった今から我々はこの百目鬼理事官直下の指揮に置かれることとなる。これは県警の本部長並びに警備部長の承認済みである。」 片倉は百目鬼を紹介した。 「百目鬼だ。よろしく頼む。」 岡田と富樫は彼に向かって最敬礼した。 二人とも百目鬼と顔を合わせるのは初めてだ。 年齢は40代半ばと聞いている。見た感じ広告代理店の営業マンという風貌であるが、彼らにはない落ち着き払ったオーラのようなものを醸し出している。親しみやすさを演出する出で立ちに反して、どこか近寄りがたさを感じさせるものがある。 「で椎名は?」 百目鬼は富樫に尋ねる。 「結論から申しますと、判断がつきません。」 百目鬼と片倉は顔を見合わせる。 「正直、どこからどこまでが嘘でなにが本当のことかの判別が出来ません。自分はあいつが石川に来てからずっとその様子を観察してきました。ご存じのようにあいつの住まいには監視カメラを設置し、自分はその様子を24時間365日追ってきました。あいつの…

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162 第151話

3-151.mp3 「え?見た?」 「はい。数時間前です。目鼻立ちがくっきりしてるけど、身体の線が細くってちょっとアンバランスな感じがしたんで覚えています。」 相馬は駅に隣接するホテルの事務所にあった。 「どの部屋に?」 「それはわかりません。」 「カメラ見せてもらって良いですか。」 「あ…はい…。」 「支配人。」 フロントの女性が困惑した様子で部屋に入ってきた。 「なに?」 「例のあの方が支配人を呼んでます。」 「マジかぁ…。」 支配人は相馬を見る。 「そうだ刑事さん。ちょっと力になってもらえません?」 「なんです?」 「さっきヤクザ風の男らがスイートに走って行ったんですよ。」 「え?そうなんですか。」 「これから私対応しますんで、妙な言動があればそこで逮捕とかできませんか。」 「え…。」 「あの、仁熊会は?」 「…そっちはマル暴のシマや。そっちでやる。」150 ーいやいや、ここで俺が出しゃばるとマル暴すっ飛ばしになる…。 ーおそらく岡田課長からマル暴には連絡いっとるやろうし、時期あいつらここに来るはず。 「刑事さん。」 「あ、あぁ。はい。」 ー支配人の横で睨みを効かせるくらいなら問題ないか。 支配人は相馬を帯同してフロントに出ると、そこにはリーゼント頭の男がひとり立っていた。 「支配人さんですか?」 「はい。」 ご多用のところ恐縮ですと丁寧な言葉使いで男は名刺を差し出す。そこには…

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161 第150話

3-150.mp3 「朝戸離脱。朝戸は武蔵が辻方面に向かいました。」 「古田さんは。」 「距離を置いて尾行の構え。」 「朝戸班は両名をつけろ。」 「了解。」 「内灘より本部。」 息つく間もなく無線が入る。 「はい本部。」 「先ほど応援依頼した人員が未着です。状況どうですか。」 担当者と岡田が目を合わせる。 「すいません。引き継ぎ漏れです。どこから応援をよこすって言ってました?」 「朝戸班と聞いています。」 担当官は直ぐさま朝戸班に繋ぐ。 「本部から朝戸班。」 「はい朝戸班。」 「内灘からの応援要請の件、状況はどうなっていますか。」 「派遣済みです。」 「え?内灘からは未着とありますが。」 「いいえそんなはずはありません。無線が入ってすぐに指示を出しました。」 担当官と岡田はまたも目を合わせた。 「了解。確認します。」 「朝戸班了解。」 「あれか。冴木がここに座っていた時のことか。」 「おそらく。」 「あいつマルトクの中、引っかき回す気か。」 「しかし朝戸班はちゃんと内灘へ応援派遣に応じています。そのあたりの指示関係はちゃんとこなされているのでは?」 「確かに…。」 岡田はマイクの前に立った。 「本部から朝戸班。」 「はい朝戸班。」 「その応援部隊と連絡取れるか。」 「はい。」 「電話でもいいから連絡とって対応してくれ。」 「あ、はい。」 「あっ待って。」 冴木は岡田に対して、…

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160 第149話

3-149.mp3 広すぎる。 部屋も調度品もベッドも何もかも。 自分ひとりでは完全に持て余してしまう。 落ち着かない。 浮世離れしたこの環境が自分の心の安寧を妨げる。 そう思っていた。いやそう思おうとする自分があった。 ドアを開く音 ーあれ…。なんだこの感じ…。 「お客様。どうされました?」 「あ、あぁ…。」147 この部屋に案内されるときに背中に感じた妙な感覚。あれは一体何だったのか。 どうしてあの白人を見た瞬間、悪寒を感じたのか。 つい最近も同じような感覚に襲われた覚えがある。 そうだ。曽我のマンションを張り込んでいたときのことだ。 さっきまで居たはずのパーカーの男が姿を消したかと思ったら、動けなくなった。直感的に自分に危険が迫っていることを感じとった。自分ではどうにも出来ない圧倒的な力が自分の側に居る。しかも悪意を持って。 あの感覚と全く同じだ。 気づくと雨澤は電話をかけていた。 「あ雨澤です。」 「おう気に入ってもらえた?」 「無理です。」 「へ?」 「助けてください神谷さん。」 「おいおい何よ…。」 「居ます。絶対居ます。」 「だから何が。」 「曽我のマンションに居た奴です。」 「なに…。」 「同じ奴かどうかわかりません。けど同じ感じがするんです。このホテルに居ます。」 「わかった。いまホテルか。」 「はい部屋の中です。」 「鍵は。」 「かかっています。開けていません。」 「本当に鍵かかってるか?すぐ…

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159 第148話

3-148-1.mp3 金沢駅隣接のファッションビル。 「どうや。」 「あ!古田さん!」 「しーっ。声でかい。」 「あ…すいません…。」 久美子の様子を監視している協力者と合流した古田だった。 「ほらあのちょっと奥まったところあるでしょ。」 エレベータ乗り場に休憩スペースのようなものがある。そこから奥のトイレと喫煙所に続く通路があり、その方面を男は目で指した。 「いまあそこにいます。便所でも行ってんでしょうか。」 「で、どんな感じで久美子を?」 「遠巻きに見るだけです。何気なくこのフロアを歩いて店の前をちらっと見てって感じです。かろうじてここのフロアは最近雑貨店ができたんで、あいつみたいな男がいてもまぁアリなんですが、レディスのショップしかないフロアだったら目立ちまくりますよ。」 「久美子は?」 「店の奥です。」 古田は男の手を握った。 「報酬や。ワシと交代や。」 「いいんですか?Aに顔割れてるんでしょう?」」 「問題ない。ばれんようにここであいつの監視をする。」 「…わかりました。」 男は古田に軽く頭を下げて、この場を後にした 「何やってんのよ。」 背後から声をかけられた。 「その声はマスター。」 「目立ちすぎよトシさん。」 森は古田を喫煙所へ連れ込んだ。 「いい?ここは流行の最先端のファッションビル。トシさんみたいな格好かまわないお爺さんが居るだけで浮いちゃうの。」 「ほやけど。」 「…

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158 第147話

3-147.mp3 「世に出ないように緊急逮捕で身柄を抑えましょう。」 「逮捕後の立証が難しいのだぞ。」 「しかしこのまま指を咥えて待つというわけには…。」 「もちろん。そのつもりはない。」 146 百目鬼が捜査員にこう答えたときのことである。 男が若林の元にやってきて彼に耳打ちした。 「なに…。」 「どうした?」 松永が若林に聞く。 「椎名賢明が金沢北署に出頭したようです。」 「なん…だ…と…。」 特高上層部三名の表情が明らかにおかしい。この場の皆がそう感じとった瞬間だった。 「ゲンタイどころじゃありません。」 「確かに…。」 「いかがしますか。松永課長。」 この百目鬼の問いに松永は額に手を当てて考えた。 松永の考えはこうだった。 椎名の居所はネットカフェ爆発事件後の数時間を除いて24時間監視出来ている。事件後、彼の監視要員も補充した。よほどのことがなければ今後巻かれると言うことはないだろう。テロの予定日は5月1日。明日だ。工作活動の主犯である椎名がこのまま何の動きも見せずにテロが実行されるとは考えにくい。彼自身がテロの実行犯にならずとも、実行の合図とか指示のようなものを出すはずだ。それを掴んでその場で確保。タイミング良ければ椎名のみならず、実行部隊の足止めもしくは検挙までいけるかもしれない。 しかし今報告が入った椎名の行動は、その松永の思惑を完全に外させたのだった。 「…パクる手間が省けたんだ…。良しとしよう。椎名を落…

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157 第146話

3-146.mp3 4月30日木曜 7時半 警視庁公安特課機動捜査班は警視庁内の会議室に集結していた。 総勢30名。全国各地から集められた凄腕の公安警察たちだ。 「定刻なので始める。」 若林がそう言うと松永がマイクを持った。 「おはよう。」 全員が松永に挨拶を返す。 「前置きは無しだ。我が国始まって以来の危機が目前に迫っている。」 こう言うと正面の大型モニターにある眼鏡をかけた男性の画像が映し出された。 どこにでもいる顔立ち。グレーのTシャツに紺色のジャージを羽織っている。 「この男の名は仁川征爾。石川県に椎名賢明という名で潜伏するツヴァイスタン人民共和国のスパイだ。」 捜査員たちがざわついた。 公安特課たるものツヴァイスタンに拉致されたと見られる人物くらい既に頭の中に入っている。 その人物の消息を松永が把握しているということも驚きだが、彼がツヴァイスタンのスパイとしてこの日本に存在しているという報告がさらなる驚きと混乱をもたらした。 「いまから説明する話はにわかに信じがたい事も多分に含む。しかしこれは事実だ。我々の上層部は既にこの情報を事実として共有している。そこのところを十分に理解して欲しい。」 こういうと松永はマイクを百目鬼に譲った。 「1994年、近畿地方の土砂災害で行方不明になったと偽装工作の上、ツヴァイスタンに拉致されていた仁川征爾は5年前ロシア経由で我が国に帰還した。その後我々の監視下で取り調べ、一定の…

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156 第145話

3-145.mp3 「このことは京子には話して良いのでしょうか。」 「駄目や。」 「…ですよね。」 「もちろんマルKも無しや。」 「わかっています。」 「…頼む。」 「はい。」 「説得できるか。」 「やるしかないでしょう。」 「そうか。」 「任せてください。」 頼んだと言って電話は切られた。 別室に籠もっていた黒田は部屋を出た。 偶然前を京子が通りかかった。 「あ、デスク。」 「おう。」 「早速面白い話入ってきました。」 「え?何のこと?」 「何言ってんですか、デスク言ったじゃないですか。ネカフェ爆発事件がなんでキー局放送されてないのかって。」 「あ、あぁ…。そんなこと言ってたな…。」 「あれ、国民の不安を助長させるとかで、各局示し合わせて報道を控えたそうです。」 「はぁ!?」 「ネカフェ事件の前から全国でテロ事件が多発してたでしょう。あれがきっかけで放送各局と新聞通信社が話し合ったらしいんです。」 「それって警察からの依頼があって?」 「それがどうも無さそうなんです。あくまでも自主的にって話です。」 「嘘だろ…。いやぁ…あり得ないでしょ。」 「私もあり得ないと思います。でも最近はあり得ないことが普通のことになってますから、私は案外普通に受け入れられますけど。」 「あっ…そう…。」 「はい。」 「しかし、それ本当だとするといずれ中の人がリークすると思うよ。SNSで。」 「ですよね。」 「警察からの依頼で報道協定結ぶってのな…

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155 第144話

3-144.mp3 「本部から各局 ケントク捜査員冴木亮の逃走事案につき 6時47分 6時47分 鞍月1丁目1番地中心の10キロ圏警戒態勢を発令する。 実施署は金沢北、金沢南、松任、野々市、津幡中央、川北、寺井、辰口 の各署とし同一に体制はいずれも甲号とする。」 「ケントク岡田から相馬。」 「はい相馬。」 「いまの無線の通りだ。相馬も冴木亮の警戒に当たって欲しい。」 「わかりました。」 「いま何やってる。」 「石大病院の様子を伺っています。」 「人体実験の件か。」 「はい。」 「あまりそれには首を突っ込むなとの指示のはずだが。」 「上層部の調整はいかがでしょうか。」 「厚生省との調整を図っているとだけは聞いている。それ以外情報は無い。」 「酷い状況です。」 「…そんなにか。」 「外来は混乱しています。全然捌けていません。連携先に協力を仰いでいるようですがうまくいっていないようです。」 「くそったれ…。」 「冴木の件了解しました。すぐに動きます。しかしこの石大の状況はなんとかしないと…。」 「暴動に発展する…ということか?」 「可能性は十分にあります。怒号が飛び交っています。」 「マジか…。」 「警察が万が一に備えた方が良いかもしれません。」 「わかった。」 「あともうひとつ気になる事が。」 「なんだ。」 「マスコミがいません。」 「ん?」 「こんな騒動が起きてるってのに、マスコミの姿がありません。」 「なぜ?」 「それはこ…

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154 第143話

3-143-1.mp3 着信バイブ それは一度の震えで止まった。 病室のドアを開く音 靴の音 「容態は。」 「安定しています。今は眠っています。」 「そうか。」 「極度の疲労が原因かと。」 「特高はこれからどうするんだ。百目鬼理事官。」 「若林警視正が片倉の後を引き継ぎます。」 「大丈夫なのか。」 「問題ありません。松永課長の人選です。朝倉事件時、石川で活躍した人物です。私がこうして上杉情報官と直接お会いできるのも若林警視正の調整力の高さです。」 「…そのようだ。」 パイプ椅子を引く音 座る 椅子に座った上杉は片倉の眠るベッドの横に装着されたガードを握った。 「年配だな。」 「片倉ですか。」 「ああ。」 「能力がすべてです。年は関係ありません。」 「…。」 「石川には70代の捜査員もいます。」 「…ダイバーシティ。」 「いかにも。」 「聞こえは良いが、その実慢性的な人員不足に悩まされている。」 「おっしゃるとおりです。」 「お互い予算だけではいかんともしがたいな。人材確保というものは。」 「はい。」 「防諜機関でありながら、敢えてスパイを受け入れ、それを正規のスタッフとして使わねばならん。」 「それほどまでに内調も人員が不足しているということですか。」 「そっち(警察)は潜入される方だが、こっち(内調)は敢えてだ。そこのところ間違いの無いように。」 「御意。」 「人材確保は急務だ。」 「このヤマが終わった…

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153 第142話

3-142.mp3 最上殺害の実行犯は朝戸であると告げてきたあの男はいったいどういう立場の人間なのか。 そもそも自分が山県久美子の監視をしているのは公安特課のごく限られた人間しか知らない事実。 そうなると中の人間の線は薄い。 「どうやって公安特課からネタを仕入れることができる言うんや…。」 古田は煙を吐く。 「…当初から言われとったしな、モグラの存在…。」 ーモグラを使ってまでマルトクの内情を知りたい存在。それは何か…。 「監視対象やろうな。」 古田は少し離れたところにあるアパート型の民泊を見つめる。 気のせいか先ほどからそこから出て行く人間が多いように感じる。 「時間の使い方は古田さんの勝手ですが、それにこちらを巻き込むようなことはお控えください。」117 古田はため息をついた。 携帯バイブ音 「はい古田。」 「例の男現れました。」 山県久美子の監視をさせている協力者からの電話だった。 「来たか。」 「ビルの前で、携帯を触ってます。」 「久美子の出勤を待っとるんか。」 「そうだと思います。」 「対象A。」 「はい?」 「以後奴をAと呼ぶ。」 「A…。」 「とにかくこのAを久美子に近づけるな。」 「近づけるなって言っても、あっちが一方的に近づいてきたら…。」 「大声を上げる。」 「へ?」 「火事や!って言えばいい。騒ぎになる。」 「でもそんなことしたら自分が。」 「こっちでうまいこと処…

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152 第141話

3-141-re.mp3 古田は目を覚ました。 枕元のにある腕時計を手にすると、それは8時を示していた。 「え!?」 前日の疲労の度合いが何であろうと、いつも朝5時には目が覚める。それが今日は3時間も寝過ごしてしまった。 彼は飛び起きて、部屋に唯一ある窓を開け外の様子を見た。 今は4月30日木曜。4月29日水曜は古田にとって激動の一日だった。 古くからの友人、公安特課の富樫に朝っぱらから休んでじっとしてろと言われ傷つき、ぶらぶら外を歩いていたら妙な男と接触。彼から東京のノビチョク事件のホシが朝戸慶太であるとリークされ、その朝戸が潜伏していると思われる東山へ向かう。東山周辺で朝戸を探っているときに偶然、本人を発見。彼を追って行くとある寺に行き着いた。 そこでその寺の住職が登場。住職は聞きもしない朝戸の身の上話を古田に披露。挙げ句、古田のことを警察の人間だと見抜く。すると彼はその場で気絶。目が覚めると朝戸が目の前に。朝戸が自分を宿まで運んでくれたとのことで、その礼にボストークセバストポリで昼を一緒に過ごした。話す限りノビチョクなんてとんでもない化学兵器を使用して、人を殺すような人間に見えない。ごく普通の中年男性。むしろこんな老いぼれに気を遣う心優しささえ感じさせる。 しかし心のどこかでこの社会に対して何らかの闇を抱えているのは分かった。 そして宿に戻り周辺を散策。すると宿の周辺から敵意というか威圧というか、妙な圧迫感を感じた。 最近、ロシア語的な言葉を話す人間が大…

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151 第140話

3-140.mp3 現在時刻は2時半。 陶は携帯電話でパソコンの画面を撮影した。 シャッター音 スマホに指を滑らせる音 マウス音 「シャットダウンと…。」 席を立ち上がった陶は部屋全体を見回す。 誰もいない。 「よし…。」 スイッチ音 ドア閉める音 革靴の音響く ドアが開く音(遠くで) 「ん?」 陶は立ち止まった。 背後でドアが開く音が聞こえた。 いま自分が消灯して出てきた部屋の方だ。 ーまさか…誰かいたのか…。 汗のようなものが陶の首筋に流れた。 そしてそちらの方に振り返る。 「…気のせい…なのか…。」 しばらくその場に立ち尽くした彼はきびすを返して元の方に進み始めた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 夜の街の音 「おつとめご苦労様でした。松永課長。」 「いやぁ…シャバの空気はいいもんだな。」 「いまどちらですか。」 「警視庁の前。コンビニ寄ってから察庁に行くよ。」 「あれ?お迎えは?」 「あぁ百目鬼が迎えに来るって言ってきたが、直ぐ横だろ。いいよ、断った。」 「直ぐの復帰、大丈夫ですか。少し休んでは?」 「いやそれは無理。片倉が倒れたって連絡が入ってさ。」 「片倉さんが?」 「あぁ。疲労らしい。」 「それは…。」 「知らないうちに情勢は随分と変わってるみたいだ。」 「それはこちらもです。」 「なんだ?」 「目標、ここに来てボロ出し…

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150 第139話

3-139.mp3 枕元の携帯電話が光ったため、椎名はうっすらと目を開きそこに目を落とす。 日付が変わった4月30日の午前1時半だった。 ーなんだこの夜中に…。 彼は自分の動きを悟られないように、布団を被ったままそれを操作する。 空閑からのメッセージだった。 「ルークから聞いた。石川の警察電話が不通になる障害が発生している。」 「ほう。」 「この計画は聞いていないが。」 「ヤドルチェンコの仕込みじゃなくて?」 「ヤドルチェンコ?」 「うん。」 空閑からの返信が止まった。 ー空閑…どうした…。 「派手にかますよう奴に頼んだって言ってたろ。」 相変わらず彼からの返信が無い。 ーおい…なんだこれは…。 「大丈夫か?」 「すまん。ちょっと頭痛が…。」 ー頭痛? 「鍋島にしてもらった。」 「えっ?」 「俺を鍋島そのものにする催眠をかけてもらった。」 「なんだ…それ…。」 「話すと長くなる。とにかく俺はあいつの手で鍋島能力を手に入れた。」 「待て。鍋島能力ってまさか。」 「そう。ルークが欲しがっていたやつさ。」 ーで、頭痛か…。 ーナイトと一緒だな。 ーなるほど頭痛は鍋島コピーの共通症状ってことか…。 ーこれで空閑が本当に鍋島能力を手に入れたならまだ良いんだが、どうも思ったような効果を得られていないみたいだしな…。 「すまんキング。ヤドルチェンコってなんだ?」 ーえ? 椎名は改めて…

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149 第138話

3-138.mp3 いつものように頭から布団を被った椎名は、その中でスマホの画面に指を滑らせていた。 「ん?」 陶からのメッセージが画面に表示された。 ー紀伊倒れる…。 椎名は即座にそれに返信をする。 「何を使った?」 「ノビチョクを使った。」 「大丈夫か?バレないか?」 「心配ない。いま手の者に処分させているところだ。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 町の雑踏 ハイヒールの足音 「お姉さん。」 自分を呼ぶような声が聞こえたため、彼女はそちらに振り向いた。 突如として物陰から男が現れたと思った瞬間、羽交い締めにされた彼女はそこに引き込まれる。 大声を出そうとするも、もう一人の男が自分の口を手で覆ってきた。 刹那、首筋が何か鋭利なもので切り裂かれるような感覚を覚えた。と同時に今まで感じたことがない部位で風を感じた。 気づくと自分の視界に噴水のように湧き上がるような液体が見えた。 この間ものの数秒の話。 彼女の意識は遠のき、そのままそれが戻ることはなかった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「確認を怠るな。」 「もちろんだ。」 またも画面に通知が表示される。 今度は冴木からだ。 矢高の連絡先を伝えるメッセージだった。 ーどれどれ…山田正良のこと矢高慎吾。こちらの方はご機嫌はいかがかな…。 椎名は指を滑らせる。 「お久しぶり。…

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148 第137話

3-137.mp3 「まぁ座れ。」 言われるがままに紀伊はそこに座った。 「回りくどいことは無しや。直球で行く。」 「…。」 「ビショップは空閑。空閑光秀。金沢の進学塾の経営者兼講師。ほうやな。」 目の前に座る片倉とは彼は目を合わせず無言である。 「黙秘か…。」 あきれた顔で彼の様子を見た片倉はため息をついた。 「紀伊、お前には期待しとってんけどなぁ…。残念だよ。」 「…。」 「ま、どうせ一生しゃべるつもりないんやろ。ほうやろうからこっちからしゃべらせてもらうわ。」 こう言って片倉は両足を目の前の机の上に乗せる。 「クイーンは光定公信。ナイトは朝戸慶太。ビショップは空閑光秀。んでキングは椎名賢明ってわけか。まるでチェスやな。」 「…。」 「チェスやとしたら他にはルークとポーンが居るはずや。お前はどっちや?」 「…。」 「警視庁公安特課機動捜査班のお前がまさかポーン、つまり使いっ走りの歩兵と言うことはねぇやろう。」 「…。」 「ルークはお前や紀伊寛治。」 「…。」 「そうやとしたらなんか見えてくるもんがある。」 「…。」 「ポーンは不特定多数の市民や。」 片倉のこの言葉に紀伊の表情にわずかな変化があった。 「ぶっ壊せ。ぶっ潰せ。」 「…。」 「これお前らの仕業ねんろ。あ?」 「…。」 「さっきの電話のやりとりでピンときたわ。椎名がキングって聞いた瞬間な。椎名の奴、個人的に動画編集の仕事を請け負っとる…

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147 第136話

3-136.mp3 玄関ドアの音 部屋に入ってくる音 「あ!帰ってきた!」 画面を見ていた富樫は大きな声を出したため、岡田もつられてそれを見る。 「ひとまず…よかった…。」 その場に居る二人とも安堵の表情を見せた。 「椎名の車が見当たらんっちゅう現場の報告から、多分タッチの差で難を逃れとるやろうと思っとりましたが、これでひとまず安心ですね。」 岡田は口をつぐむ。 それを見た富樫はしまったという表情を見せた。 「ウチから二名だ。」 「そうでした…軽率な発言申し訳ございません。」 岡田は両手で顔を覆う。 そしてしばらく室内をうろうろと歩き、足を止めた。 「まさか…椎名がネットカフェを爆破させた…とか…。」 「え?」 「椎名のガラ抑えろ。」 「自宅にいることを抑えてるのに?」 「いい。ニンドウでここまで引っ張ってこい。」 「マジで言っとるんですか課長。」 「…。」 「椎名はいつでもパクれます。現にいまこうやって奴の動きをつぶさに監視しとるんです。」 「ネットカフェの中はどうなんだ。」 「…。」 「ネットカフェから自宅までの間もロストしていたぞ。」 「それは…。」 「偽造免許の伊藤拓哉が椎名の部屋の隣に来た途端これだ。ウチの捜査員二人は吹っ飛び、民間人の重軽傷者多数。なのに爆心地の一番近くに居た伊藤は忽然と姿を消し、椎名はすんでの所で難を逃れた。」 「…ですね。」 「全部これ、椎名の計算通りだったとしたらマサさ…

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146 第135話

3-135.mp3 椎名がネットカフェの個室に入ったと報告が入って1時間半。 彼に張り付く現場捜査員から変わった様子などの報告は未だない。 「そういやいつ頃からやったけ…。週に一回はネットカフェ。これが椎名のルーティンになったんは。」 ホットコーヒーに口をつける 息をつく マウスの音 しばし無音 「ワシをすっ飛ばして頭越しに直でやり取りする警察の誰かさんもさることながら、身近で世話してきたワシに悟られんように特高とコンタクトとっとった椎名にもがっくり来ました。」59 「あいつがワシをすっ飛ばして、特高とコンタクトとるとしたらこのネットカフェを利用するタイミングが一番可能性が高い…。」 富樫はとっさにマイクを口に当てる。 「富樫から椎名班。」 「こちら椎名班。」 「椎名は個室に入ったとの報告であるが、そこには隣部屋とかあるのか?」 「はい。個室は6室。椎名が入る部屋は角部屋でして、隣部屋は一室あります。」 「その部屋は使用中か。」 「え?」 「その部屋が使用中ならそこの利用者調べてくれ。」 「確認して報告します。」 ドアを閉じる音 部屋に岡田が戻ってきた。 「いやぁ凄いわ…。」 「どうしたんですか。」 「これ見てみ。」 岡田は携帯の画面を富樫に見せる。 「なんですかこの残念な頭のおっさん。」 「よく見てみろ。」 「え?よく見るんですか?」 「うん。」 「凄まじい散らかしっぷりですね。こんな具合に…

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145 第134話

3-134.mp3 陸上自衛隊兼六駐屯地内の一室で三好は男と向かい合って座っていた。 「そうです。我々はいざというときの即応体制を整えるためにいます。水際対策はあくまでもそちらの仕事。我々の存在は保険と考えてください。」 「と言うことは、自衛隊としてはその危機が目前にまで迫っているとの認識なんですか。」 「何度も言うように我々が動かないに越したことはない。そちらの仕事の内で完結するのが国益としては良とされることではないでしょうか。」 「確かに。」 「ただ最悪の場合、我々は動きます。そのために準備をする。それだけです。」 二人の前に金沢の住宅地図が広げられている。 蛍光ペンで印が付けられていた。 「この6拠点にロシア系の人間が集中的に住み込んでいる。で良いですね。」 「はい。」 「火器類を運び込んだ形跡などは。」 「そこまで把握できていません。」 「5月1日のテロ計画との関連性は?」 「それもわかりません。」 「警察として踏み込む予定は。」 「今のところそれはありません。」 「なぜ。」 「特定の人種を狙い撃ちにした強制捜査、すなわち人権弾圧とされかねない。」 「人権弾圧との批判を恐れて、自国民を危険にさらすのですか。」 「…。」 「政治があなた方にそう言ったのですか。」 「いいえ。」 「じゃあなぜそんなことを。」 「人権派の活動家が勢いづきます。」 小寺は腕を組む。 「うーん…よくわかりません。たかが活動家じゃないですか。」…

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144.2 第133話【後編】

3-133-2.mp3 「申し訳ございません…。」 岡田を前に富樫は目を合わせることができないでいた。 「んなこともある。」 岡田は彼の肩を叩いた。 「相馬さん管理の下、光定を泳がし関係者の尻尾を出させる策、完全に裏目に出ました。」 「…。」 「本当に申し訳ございません。」 「もういいってマサさん。」 県警本部内にある公安特課の指揮所。 今のここには富樫と岡田の二人しか居なかった。 「当の相馬は。」 「気になることがあるとかで、石大病院から離脱しました。」 「そうか。」 「しかし…なんで…。」 「んなもん決まっとるでしょう。やっぱり居るんですよモグラ。」 「マルトクにモグラ。」 「公安特課厳重監視の下、光定の部屋に忍びこんで消音化された銃で、腹と頭に二発撃ち込んで退散。その行動は目撃者は居らず、院内のカメラにもその様子は映り込んでない。外部の犯行なんてありえんだろう。」 「はい。」 「問題はどいつがモグラかってことや。」 富樫は黙った。 岡田は当初から警察内部のモグラの存在に気を遣っていた。 富樫による椎名監視の様子はケントクないでしか共有されないようになっている。すべての情報は岡田で止まり、必要があれば彼から直接特高に渡す仕組みだ。しかしそれがなぜか、岡田をすっ飛ばして特高に筒抜けになっていた。 「北署マルトクよりケントク。」 指揮所に所轄からの無線が入ったため、それに富樫が応える。 「こちらケントク。…

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144.1 第133話【前編】

3-133-1.mp3 「事故じゃなくて殺された。」 「事件として明るみになっていない…。」 「証拠はあるし、誰が犯人なのかも特定済み。」 「法の裁きでは時間がかかる。」 「だから別の方法で…。」 宿に戻っていた古田は夜の帳が落ちた外の喫煙所で、タバコを吸いながらひとりごとを呟いていた。 タバコを吸う音 「で、一色は事件の本質である本多と仁熊会、県警の闇に一度にメスを入れ、それらに社会的制裁を与えようとした…。」 確固たる考えと実績。この二が一色という男の基盤をなしており、なおかつ彼には警察幹部という立場があった。だから一見夢想とも思える世直し劇の実行にも一定の信憑性を持って受け入れられることが出来る。だがその一色ですら村上の反撃に遭い、その計画は頓挫した。 「いやいや…なんで朝戸を一色なぞらえとるんや、ワシ。」 タバコの火を消した彼はポケットに手を突っ込んで、歩き出した。 「あいつはただのテロリストや。」 古田は振り返って宿を仰ぎ見る。 「ははははは!」 「なんかあるじゃないですか。ウォシュレットすると、その刺激でどれだけでも出てくるみたいな。」 「そんな話、初対面の人間にします!?」127 「ワシのゲス話にも付き合える、心の広い中年男性にしか見えんがやけどなぁ…。」 再び古田は歩き出した。 仮に朝戸のテロ事件も一色と同じような世直し的意味合いを持って実行されたとしよう。しかしそれでどう世直しが図られたというの…

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143 第132話

3-132.mp3 「…わかった。」 佐々木死亡の報が陶にもたらされたのは4月29日の夜になった頃だった。 「注意を怠るな。」 電話を切ると陶は天を仰いだ。 「佐々木統義警部補。こいつは俺の石川の分身だ。」 「本部長の…。」 「ああ石川における…な。こいつを貴様に紹介する。俺の分身だと思って気軽に話してくれ。きっと貴様の力になるはずだ。」118 「キャプテンの分身が死んだ…。」 佐々木は陶の石川における工作のハブ役を担っていた。 捜査一課である彼は同部署に数名の協力者をつくり、彼らをたくみにコントロールし、チェス組と言われる仁川、光定、空閑、朝戸、紀伊のハンドリングをしていた。そしてかれらが暴走をしないようその監視を行っていた。 明後日、5月1日金曜。この日の夕刻に朝戸が金沢駅でヤドルチェンコらとテロを起こす手はずとなっている。 あと二日。あと二日で重大な局面を迎えるというときの主力戦力の喪失。 陶の喪失感は想像を絶するものだった。 「一旦自由の身になってアルミヤプラボスディアの動きに目を光らせたいのです。5月1日。ここで石川の部隊が金沢駅で何らかのテロを起こします。やつらはそれで今手一杯です。おそらくマルトクも何かしらの兆候を見つけてそれを阻止するよう動いているでしょう。石川部隊、マルトクこの両者が睨み合う中、奴らだけノーマークとなるのはまずいです。」116 「アルミヤプラボスディア…。」 受話器を手にした陶は電話をかけ始め…

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142 第131話

3-131.mp3 「はい。夜の警邏中に発見しました。」 朝の港町は騒然としていた。 事情聴取を受けるのはこの港町の駐在、矢高慎吾。 「発見時からのこの状態でしたか。」 「はい。」 港の浜に立つ彼の前には横たわる2体の遺体があった。 「過去にこの浜から姿を消した特定失踪者がいますので、毎晩巡回を怠らないようにしとりました。」 「昨日の晩は特に変わったことはありませんでしたか?これらの遺体を発見するまでに。」 矢高はしばらく考える。 「いえ。特には。」 「そうですか…。」 「あ。」 「なんです?」 「いや、気のせいです。」 「何でも良いです。気になったこと教えてください。」 「言われてみれば、珍しいものを見たかもしれません。」 「珍しいもの?」 「はい。たばこ吸っとる人居ました。」 ーえ…? 「ほらあすこの民宿あるでしょう。」 矢高は指さす。 「ここらの人は夜は基本外に出ません。台風が来るとかでどうしても船の様子を見ないかん時くらいしか、夜に外出んがです。」 「…。」 「けど昨日の夜はあそこの宿泊客ですかね。そとでたばこ吸っとる人居ったんです。多分宿の主人にも止められたと思うんですが。」 ーこいつ見とったんか…。 「んにしても物騒ですね。ふたりとも殺られた形跡ありますから、どこかにホシが潜伏しとる可能性がありますね。」 このときの矢高は聴取する佐々木から目をそらし、海の方を見つめた。 …

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141 第130話

3-130.mp3 「第2小早川研究所?」 「はい。」 「…わかった。すぐに調べる。」 「もうひとつ気になることが。」 「なんや。」 「物忘れ外来の予約、問い合わせが昨日から激増しとるみたいです。」 「はぁ?」 「石大病院だけじゃなく、県内の同種の外来窓口も同様。他県はわかりません。」 「認知症が流行っとるってか?」 「現状を見る限りまさにそういう状況です。」 片倉は頭を抱えた。 「どいや…認知症がうつるって聞いたことねぇぞ。」 「似たものにクロイツフェルト・ヤコブ病ってものがあるらしいです。」 「それ狂牛病やろ。」 「はい。」 「ってかあれは狂牛病の肉とか内臓食ったらうつるってやつや。んなそれっぽい肉が流通しとるなんて話は聞いとらん。」 「光定はもとは脳神経の医師。石大病院の物忘れ外来の担当のひとりが光定。その貴重な戦力が現在欠けてしまったのも相まって、あの病院は混乱状態です。」 ふと昨日の百目鬼とのやりとりが思い起こされた。 「急に認知症のような症状が出た...ですか。」 「あぁ疼痛を抑えるための催眠治療を受けた直後から。」 「トシさんはその疼痛に?」 「いや、アイツは高血圧と狭心症だ。」 「じゃあ。」 「片倉。石川大学病院だぞ。トシさんがかかってんのは。」 「でもなんでトシさんに催眠治療なんか。」 「だから言ってるだろうが。石川大学病院だって。」 「あのぅ…理事官。自分、ちょっと頭の整理がつかんがです。」 「天宮。」…

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140 第129話

3-129.mp3 自販機の音 「話が違いますよ。」 「申し訳ない。」 病院の自販機コーナーで、距離を保ちつつ話す病院部長の井戸村と相馬があった。 「完全にこちらの落ち度です。」 「確実にこちらにも飛び火します。」 「…。」 相馬は気まずそうに黙った。 「まだあちらからは何のコンタクトもありません。」 「そうですか…。」 「おそらく私はこの責任で職を解かれます。」 「代わりのお仕事はこちらで…(斡旋します)。」 言葉を言い切る前に相馬は胸ぐらをつかまれ、そのまま自販機に背中をたたきつけられた。 「身の安全は保証するって言ったよな…。」 「…。」 「公安特課ってのは口ばっかりのはったり野郎の集まりか!?」 「…。」 「病院で厳重管理の人間をみすみす殺されるような監視行動しか出来ない連中が、この国に及ぶ危険を水際で回避?笑わせるな!」 「…。」 何も答えない相馬を前に一方的に怒りをぶつけている自分の存在を気づかされたのか、井戸村は彼の胸ぐらからその手を離した。 「申し訳ございません。」 「くそっ!」 「あっ部長!」 声をかけてきたのは部下の坊山だった。 「なんだお前。休めって言っただろうが!」 「休んでました。休んでましたが、こんなことになって家でぼーっとしとれんでしょう。」 「だから尚更休んでろって言ってんだよ。危ねぇだろ!」 「部長。」 「なんだ!」 「自分だけが重い十字架背負ってる的な設定…

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139 第128話

3-128.mp3 「お疲れ様です。」 「お疲れ様です。」 石川大学病院の当直室。 その部屋の前にある男に声をかける者があった。 「この部屋の中に対象がいる。」 「俺らはこの対象の身の安全を図る。で、いいですね。」 「定期的に中の様子を見てくれ。もしものこともあるから。」 「自死ですか。」 男は頷く。 「報告関係は富樫のオジキまで。」 「オジキですね。了解。」 男がこの場から姿を消したのを確認して、彼は両手にゴム手袋を装着した。 ノック音 返事が無い。 再度ノック 「光定先生。警察です。」 ドアが開かれる音 「交代でこれからしばらく先生の部屋にいます。何かあれば何なりと申し付けください。」 「…は…はい…。」 「いま一度部屋の中を調べたいのでご協力願います。」 彼はゴム手袋をはめている両手を光定に見せる。 「盗聴器とか付けられていないか一応確認せよとのことですので。」 「あ…はい…。」 部屋に入ると男は即座に鍵をかけた。 「え?」 消音化された銃弾は光定の腹部を穿ち、続いて彼の頭部を撃ち抜いた。 それは全く無駄のない流れるような出来事だった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「おかしい…出ない…。」 相馬は富樫に電話をかける。 「はい。」 「あ、富樫さん。おかしいんです。」 「何がおかしいんですか。」 「光定、電話に出な…

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138 第127話

3-127.mp3 「え?ノビチョク事件のホシ?」 「はい。」 「…名前は。」 「朝戸慶太。1977年東京生まれです。」 「なんで古田さんがそのホシを抑えてんですか。」 「わかりませんよ。とにかくマルトクには秘密にしてほしいって依頼なんです。」 神谷がタバコをくわえると、側に居た若い者がすかさず彼のそれに火を付けた。 「ふぅー…。で、野本さん。あなたの役回りは。」 「この朝戸慶太の身の回りを洗う。2日間で。」 「わかった。こっちでやりましょう。」 「助かります。」 「この件はこちらで預かります。報告の是非はこちらで判断します。」 電話を切った神谷はタバコの火を消した。 「おい一郎。」 「はい。」 スキンヘッドの顔に傷跡がある大男が返事をした。 「この男、江國に調べさせてくれ。写真はあとでおまえのほうに送る。」 「かしこまりました。」 「リミットは24時間。24時間であるだけのネタをこっちまで送ってくれ。」 一郎と呼ばれる大男は数名の手下を従えて部屋から出て行った。 「あれ?どうしたの。もう少し楽にしてよ。」 目の前の雨澤がずいぶんと小さくなっているのを神谷は指摘した。 「あ…自分、これが普通なんで。」 神谷と雨澤を取り囲むように先ほどの辰巳のような強面の男たちがずらりと立ち並んでいる。 そうここは仁熊会。 熊崎仁がこの部屋のかつての主だった場所だ。 「オヤジは長い間不在でね。その留守を俺が預か…

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137 第126話

3-126.mp3 トイレに行くと言って席を立った古田は、奥にいるセバストポリの店主、野本と接触した。 「どういった男ですか。」 「最上さんのホシと目される男や。」 「えぇっ!」 「しーっ。」 普段感情を表に出さない野本であるが、この古田の発言には流石に驚かされた。 「ただ今はパクるタイミングじゃない。」 「逃亡の危険性は。」 「いろいろ話してみたところただの素人や。」 「素人がノビチョクなんて物騒なものを手に入れられるんですか。」 「そこが気になるところ。ほんで野上さん、あんたに頼みたい。」 「なんでしょう。」 「朝戸慶太。昨日東京からここ金沢に来た。奴の過去と交友関係を洗ってほしい。」 古田はメモを野本に手渡す。 「朝戸慶太ですね。わかりました。これ、特高の片倉さんの協力を仰いでもいいでしょうか。」 「特高か…。」 古田は難しそうな顔をした。 「なにか不具合でも?」 「時間の使い方は古田さんの勝手ですが、それにこちらを巻き込むようなことはお控えください。」117 「…いや、それはやめておけ。」 「ですが東京の人間を調べるには、現場、特高の力を借りるのが一番手っ取り早いですよ。」 「うーん…。」 「奴がホシだってのは、特高は知ってるんでしょう?」 「知らん。」 「あ…そういうことですか…。」 野本は古田が表に出せない動きをしているのを察した。 「しかしホシを前にして悠長なこともしてられませんし。…

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136 第125話

3-125.mp3 「どうされました?」 背後から声をかけられた古田は振り返った。 黒衣をまとった住職らしき男性が立っていた。 「あ、どうも。」 古田は彼に向かって頭を下げる。 「あたながご覧になっていたこの銀杏の木は、藩政期に植えられたものと言われています。」 住職は銀杏の巨木を仰ぎ見る。 「はぁー…んでこんなに大きいんですな。この辺りを歩いとってら、ずいぶん立派な木があるなって思って、ついふらっと境内の中に入り込んでしましました。」 「あぁいいんですよ。どなたでも自由にお参りいただければいいんです。ご縁ですから。」 「あ、はい…。」 「どちらから?」 「駅の方からです。地元の人間です。」 「あぁそうなんですか。」 「仕事もリタイヤして、地元のことをちょっと見つめ直してみようかとこの通りをぶらぶらしとるんです。」 「どうです?」 「近すぎて当たり前すぎて何が良いのかわからんかった地元の景色。あらためてそれと向き合うとその良さを感じることができます。」 「それは結構なことです。」 銀杏の巨木の下にある木製のベンチに住職はよっこらしょっと言って腰をかけた。 「私のような人、結構いらっしゃるでしょう。」 「まぁポツポツですかね。なにせ観光地からはすこし離れてますから。」 「たしか私の先にも若い男性がこちらに入ったような気がしたんですが。」 「あぁあの方はお墓参りです。」 「お墓参り?」 「えぇ。奥に墓地があります。そち…

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135 第124話

3-124.mp3 金沢郊外のパチンコ店。 駐車場に車を止めていた佐々木の胸元が震えた。 「…はい。」 「光定を消してください。」 「…。」 「至急でお願いします。」 「何があったんですか。」 「奴が転びました。」 「奴?」 「光定です。」 「石大のセンセですか。」 「はい。」 「転んだ…。」 「そうです。」 「じゃああの研究はどうするんですか。」 「知りません。もうそんなことは言ってられません。」 「いけません。」 「…。」 「いままでどれだけの労力と時間、予算をかけあの研究をしてきたとお思いなんですか。」 「んな事言ってられます!?当の研究員が転んだんですよ。」 「天宮憲行をはじめ鍋島研究に携わる人間が皆殺され、生き残るものは光定公信ただ一人。その光定公信は未だ我々の手中にあります。現在のところ奴らには鍋島能力を手に入れられる可能性が見いだせない。」 「うむ。」 「となれば、鍋島能力、それ自体を消滅させるという方法もあるのでは。」 「能力の存在そのものを消し去る?」」 「はい。鍋島能力に関係するすべてのモノを潰すんです。」116 「専門官は承知してらっしゃるのですか。」 「…。」 「やっぱり…。」 「もうだめだ…。」 「光定を消すというのは紀伊主任の発案ですか。」 「…。」 紀伊の無言はすべてを語っていた。 「仲間割れですか?」 「そうなりたくない。そのための措置です。」 「とにかく専門官の了…

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134 第123話

3-123.mp3 「なに?駅に現れた?」 「はい。古田さんから電話があってすぐです。」 「で。」 「山県の店の様子を覗ってたんですが、対象が休みだとわかったんでしょう。すぐに引き返しました。」 「どこに向かった。」 「武蔵が辻の方に歩いて行きました。」 「歩いて…。」 「アシないんでしょうか。」 「かもな。」 「付けますか。今ならまだ間に合うかと。」 「時間の使い方は古田さんの勝手ですが、それにこちらを巻き込むようなことはお控えください。」117 「いや、いい。」 「わかりました。」 電話を切った古田はたばこの火を消し、宿がある東山から武蔵が辻の方面に向かって歩き出した。 向かって右側に先ほど婦人が言っていた、ロシア系の人間が多数宿泊するアパートがある。 築50年のプレハブアパート。見た目こそ昭和感満載のアパートであるが、手入れは行き届いているようだ。 たしかに物音ひとつ聞こえない。 外国人が大勢住んでいるのに、話し声のひとつの聞こえない。 ーあれか…リノベーションとかして防音関係もがっつり対策しとるんかな…。 アパートと反対側には民家が建ち並んでいる。 これらの戸建ても築40年から50年程度と古いものが多い。 こちらからはテレビの音が聞こえたり、お茶の間で話す声が聞こえる。 ずいぶん大声で独り言を言ってるなと思ってふとそちらを見ると、窓の隙間から電話をしている老人が見えたりもする。 日中に生活音がよく聞こえる。 そうこの…

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133 第122話

3-122.mp3 「まいど。」ドア閉まる音タクシー走り出す金沢の観光PR映像の中に必ず入り込む風景がある。格子と石畳が続くひがし茶屋の町並みだ。古田が降り立ったのは、そのひがし茶屋街から少し離れた昭和の風情が色濃く残った住宅地。そこにある築40年程度のプレハブ住宅を今風に改造した民泊施設があった。「お姉さん。」買い物帰りと思われる婦人が通りを歩いていたので、古田は彼女に声をかけた。「なんけ?」「いやぁ久しぶりにここらへん来てんけど、こんな宿みたいなの昔あったけ?」「あーあれね。あれ最近流行りの民泊やわいね。ここらへん結構あの手のやつあるげんよ。」「あ、ほうなんけ。」「え?あんたどんだけぶりなんけ。」「ほうやねぇ10年ぶりくらいかぁ。」「ここらへんに住んどったん?」「あ、いや、住まいは駅の近くねんわ。」「あれまぁ、いま一番キラキラしとるところやがいね。」「おいね久しぶりに帰ってきたえらいことになっとるんやね。ほんでどれどれって感じで、観光気分でここらへん歩いてみたって感じねんわ。」「まぁ喋り聞いたら完全に地元の人やもんね。」「ほっけ。」「ほうやわいね。」「…やっぱ、この手の宿って観光客ばっかなんけ、利用者。」「基本的にはね。」「え?基本的?」「そう。」婦人は古田が指していた宿とは違うアパートを指した。「あんまり大きな声出せんげんけど、あそこの民泊はちょっと違うみたい。」「まぁアパートやしね。」「いやそういうことじゃなくて。」「ちょっと違う?」「なんか外人多いげんわ、あそこ。」「外人?」「…

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132 第121話

3-121.mp3 交差点で信号待ちをする男の横に何者かが気配を消すように立った。 「よくやった。」 男は彼にそっと何かを手渡した。 「頼むぞ。」 受け取った彼はなんの返事もしない。 信号が青になると同時に二人は自然と距離をとり、別々の方に向かった。 「やっぱり内調だと、公安のグリップは効かせにくいって事かねぇ…。」 矢高の目の前に短く刈り込んだ髪型の老人が、背を丸める姿勢で歩いている。 姿勢は悪いが彼の足取りは確かだ。見た目とは違い、その体力は未だ衰えを見せていないといったところか。 ー古田登志夫…。齢70を過ぎて公安特課のハブ役を担うバケモノ。 矢高は自分の気配を消し、古田の後を追い始めた。 ースッポンのトシと言われたその執念の捜査姿勢。俺がいた能登署まで噂されてたよ。あれから何年だ…。あんたのような昔気質のサツカンってのはずいぶん減ったような気がする。 時折頭を指でかきながら、古田は大通りを進む。 ーこれも時代の要請…。でも俺はあんたのやり方は否定しない。空中戦だけじゃ絶対に相手を制圧できないからな。最終的には地上軍投入で押さえ込まないことには制圧できない。あんたのような存在は絶対的に必要だ。ただ…。 辻を曲がった古田は彼の前から姿を消した。 矢高はそのまままっすぐ進んで、古田が曲がった通りの方を横目で見た。 先ほど交差点で何かを手渡した男が古田と接触していた。 「あんたは年を取り過ぎた。」 ポ…

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131 第120話

3-120.mp3 「おはようさん。」 この軽い挨拶に特高部屋内のスタッフ全員が立ち上がって応えた。 「おはようございます。」 自分の席に着くと同時に、主任である紀伊が側にやってきた。 「片倉班長。」 「なんや。」 「ヤドルチェンコ、ロストしました。」 「は?」 「申し訳ございません。」 「え?なに?また?」 「はい…。」 「え?張りついとってんろ。」 「はい。」 「それがなんで?」 「例のマンションに帰ったのを最後に、行方をくらましました。」 「マンションに帰ったんに行方不明?」 「はい。」 「んなだらなことあっかいや。」 片倉の言葉遣いに苛立ちが見える。 「管理会社の協力の下、部屋の立ち入りをしました。しかし、奴の姿を確認できませんでした。」 「…。」 「班長?」 「ってことはあの会社もグルか…。」 片倉は立ち上がった。 「やってくれたなぁ…。」 「え?しかしこのマンションの管理会社はヤドルチェンコとは何の関係もないことは確認済みですが。」 「どこでどうあいつらと繋がっとるか…んなもん結局の所わからんやろ。」 「は、はぁ…。」 「なんか気になるところなかったか。部屋ン中。」 「いえ、ピンク系のフィギュアとかコンテンツが大事にしまってある以外は特に。」 肩を落とした片倉は力なく席に座る。 「はぁー…かつてはロシアの情報部で腕を鳴らした強者が、いまは雑貨商という仮面をかぶったただのピンクの横…

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130 第119話

3-119.mp3 「はあ!?」 「ま、そういうことで雨澤君は神谷君の言うこと聞いて。ね。」 「ねっ…て…。」 「その分手当弾むからさ。」 「そらぁ現にいま、新幹線で金沢に向かってるんですから出張手当ぐらいは…。」 「出張手当だけでいいの?」 「え?」 「さすが雨澤君。自分を犠牲にしてまで社の利益に貢献する。日本人独特の自己犠牲の精神。僕は好きだなぁ。」 「いや、ちょ…ちょっと。」 「心配しないで、今回の仕事が終わったらちゃんと報いるから。」 「あ、はぁ…。」 「だから仕事が終わるまでは神谷君の指示に従ってね。」 電話は切られた。 「社長なんて言ってた?」 「今回の仕事終わるまでは神谷さんの指示に従えって。」 「そう。」 神谷は雨澤に缶コーヒーを差し出した。 「よろしくな。雨澤君。」 「あ、はぁ…。」 「盃を交わすとしようじゃないか。」 「盃?これコーヒーですよ。」 「あ、ごめん俺、酒飲めないんだ。」 ではと言って神谷はそれに口をつける。 「刑事みたいに張り込みしたり、変な奴に追っかけられたり、なんなんすかこの2日間は。」 「何なんだろうね。」 「あの連中、また俺らのこと追っかけるとか無いんでしょうか。」 「無いとは言い切れんな。」 「マジっすか…。」 「うん。」 「なんなんすかあの連中。」 「わかんね。でもヤバい連中だってのはわかる。」 「それは俺でもわかります。だって曽我を殺したのはあいつらなんでしょ。…

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129 第118話

3-118.mp3 10年前  警視庁捜査第一課の管理官として赴任早々、3件の捜査本部の指揮を執る羽目になった陶の疲労は極限に達していた。 「管理官。ひどく疲れた様子です。さすがにお休みになった方が良いかと思います。」 ある係長が気を利かせて声をかけてきてくれた。 「そら休みたいさ…。けど不眠不休で動いてる現場を尻目に俺だけスヤーってわけにいかないだろ。」 「いやいや、管理官は捜査本部の頭脳。頭脳が疲弊してしまっては、正常な判断ができなくなります。半日でもいいですから休んでください。」 「そんなに俺ヤバい?」 「はい。顔に疲れたって書いてあります。」 陶は窓ガラスに映り込んだ自分の顔を見た。 ぼんやりと映り込む自分の目は充血し、その下にははっきりとクマのようなものが見える。 「ヤバいね…。」 「はい。その外見、現場の士気に影響します。」 「わかった。少し休む。」 陶は係長の進言通り、半日だけ自宅で休息をとることとした。 都会の雑踏 携帯電話の着信 ー休むって言ったろ…。 表示されるそれを見ると電話帳未登録の番号からだった。 一時的とはいえ仕事から解放されたことで気が緩んでいたのだろうか。 陶は警戒することもなくそれに出た。 「はい。」 「陶晴宗さんですね。」 「どちらさまですか。」 「朝倉と申します。」 「朝倉?」 「はい。」 「なぜこの電話を。」 「そんなことはたいした問題じゃありませんよ。む…

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128 第117話

3-117.mp3 「こんな時間になんです?」 突如かかってきた古田からの電話だった。 「石大の井戸村の背後で糸を引く男がおる。井戸村はどうやらそいつと決別するようや。」 「…。」 「どうした?マサさん。」 「古田さん…。」 「なんや。」 「休みでしょ。休みの時は仕事のことは一切考えん方がいいです。」 「なんやその言い方。」 「いいですか。古田さんは岡田課長から休めと言われとるんです。いまのあなたの仕事は休むこと。んなんにそれせんと仕事しとる。」 「いいがいや。わしはわしでフリーの立場でやれるだけのことやろうとしとるんや。休みの間の時間の使い方ぐらいワシの勝手にさせてくれ。」 「時間の使い方は古田さんの勝手ですが、それにこちらを巻き込むようなことはお控えください。」 突き放したようにもとられるこの富樫の言い方に、古田はショックを受けた。 「いま古田さんから報告いただいた件は、すでに相馬さんが把握しとります。」 「相馬が?」 「はい。」 「…。」 「なんで古田さん。あなたは岡田課長に言われたとおりお休みください。休めば気力も体力も復活する。そうすればかつてのスッポンのトシの復活です。」 「かつての…。」 「はい。」 「マサさん。」 「なんです。」 「ワシ、そんなにおかしいか。」 「え…。」 「ワシ、ほんなに妙なこと言っとるか?」 ここで「はい」なんて言えるわけがない。富樫は黙った。 「ほうか…やっぱりほうなんやな…。」…

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127 第116話

3-116.mp3 熨子山 天宮ゆかりの現場にいる佐々木の胸元が震えた。 新着メッセージの通知のようである。 「ちょい俺便所。」 こういって佐々木はその場を外した。 「陶専門官。こちら佐々木です。」 「天宮憲行のコロシの現場にあった洗面器。ここから採取されたのが天宮ゆかりの指紋。で、土の中から掘り出されたゆかりの側には憲行の財布。しかし犯行時刻にゆかりが憲行と接触した形跡はない。」 「はいそうです。」 「曽我の時と似ている。」 「曽我殺し?曽我殺しは石川実行部隊による粛正と専門官から聞きましたが。」 「いや粛正の実行犯が殺された件だ。」 「え?それは初耳です。」 「だろうな。」 「なんかややっこしいですね。」 「とにかくその曽我を殺した人間が発見された状況と、天宮ゆかりが発見された状況が酷似してるんだ。」 佐々木は驚きも何もなく淡々と受け答えした。 「天宮ゆかりにせよ曽我殺しのホシにせよ、我々のあずかり知らないところで、こうもわかりやすい形でやられるとな…。」 「何らかの意図を感じますね。」 「だろう。」 「ゆかりの件も見つけてくださいと言わんばかりでしたから。」 「ゆかりが憲行の研究の手綱を引いていたわけだが、奴が死んでしまった今、ゆかりの存在意義はなくなった。それを我々に見せつける。」 「我々に対抗する意思を持つ連中によるものか。」 「人民軍派。」 「必然的にそうなるか。」 佐々木は顎に手をやった。 「奴らの動…

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126 第115話

3-115.mp3 冷蔵庫を開くと、いつもそこにあるはずの牛乳がないことに気がついた。 「しまった…。」 ジャージ姿のまま椎名は外に出た。 部屋を出て徒歩三分。横断歩道の先にコンビニエンスストアがあった。 信号が青になり歩き出すタイミングで、コンビニから客が出てきた。 その客と横断歩道上ですれ違いざまに椎名は口を開いた。 「Мы готовы.」 「Спросите в туалете.便所で聞く」 コンビニに入った椎名はそのまま店のトイレに入った。 そしてその備品棚に手を伸ばす。 そこには一台の携帯電話が置かれていた。 「Офрана начинает терять свою популярность. オフラーナは仲間割れが始まっています。」 「В частности. 具体的に。」  「Главнокомандующий настроен скептически.Никому нельзя доверять. 司令塔が疑心暗鬼になっている。誰も信用できない状態です。」 「Как они могут сделать это послезавтра? そんな状態で明後日決行できるのか?」 「Они должны это сделать. Они никак не могут повернуть назад после того, что они сделали. 奴らはやらざるを得ない。ここまでやって引き返すなんてできるわけがありません。」…

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125 第114話

3-114.mp3 「内紛でしょうか。」 「小寺三佐、それは私も考えていた。天宮憲行はオフラーナ派のツヴァイスタンシンパ。一方、妻の天宮ゆかりは人民軍派のツヴァイスタンシンパ。同じシンパといえど出自が違う。このふたつ、犬猿の仲だ。」 「その通りです、赤石隊長。オフラーナ派の下間芳夫の影響からツヴァイスタンにのめり込んでいった憲行と違って、ゆかりは生粋の活動家。しかも過激派です。ゆかりは夫を隠れ蓑にして活動に明け暮れていました。」 「そうだ。あの二人は見せかけの夫婦。その証拠にゆかりはしょっちゅう外出していたと聞く。」 「警察が聞き込みに行ったときも、ゆかりはいなかったと情報が入っています。」 「うん。」 「大方、活動のための外出でしょう。遺体が発見された熨子山ですが、ここの中腹にある住宅地の中に人民軍派のアジトがあります。」 「以前から金沢の特務機関がマークしていたやつか。」 「はい。ヤメ警の矢高慎吾も出入りする場所です。」 「人民軍派の日本での主な活動目的は鍋島能力の軍事転用。その管理をしているのが天宮憲行の妻である天宮ゆかり。」 「今回、公安特課が天宮の家に乗り込んで聞き込みをしました。天宮憲行は鍋島能力研究の本丸。完全に天宮は疑いがかけられています。それを知ったゆかりは即座に夫を消した。人民軍派のネットワークをもって。」 「殺しの手口が慣れている。プロの仕業と見て間違いない。」 「はい。人民軍派といえばアルミヤプラボスディアあたりの仕業の可能性が高いでしょう。」…

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