第66話

3-66.mp3 石川大学病院の職員通用口。日勤を終えた看護師たちが続々と出てきた。 開放感溢れた表情で出てくる者もいれば、疲れ果てた様子のものもいる。仲の良い看護師同士で愚痴めいたことを話している者もいれば、それらとは距離をとっている者もいる。 その一団が病院から出て、人気がなくなった頃に木下すずが現れた。 一度空を見上げて降り注ぐ雨の様子を確認した彼女は、傘を差しうつむき加減で歩き出した。 「木下さん。」 雨の音に混じって自分の名前が呼ばれた気がして彼女は足を止めた。 「木下さん。相馬です。」 声は自分の後ろ側から聞こえた。 振り返ると、日中外来にいた患者の男が立っていた。 「あ…。」 「ごめんなさい。待ってました。」 「…。」 「ミリ恋の話がしたくて、木下さんからの連絡待ってたんですけど、何も動きがなかったんで、どうにもならなくって出待ちしてしまいました。」 「…そうですか。」 「迷惑でしたか?」 木下はうなずいた。 「すいません…。」 「あ…いや…ミリ恋の話はそれはそれで全然、私いいんですけど…。」 「え?…じゃあ…。」 「ただ…いまはそんな気にならなくて。」 このときの木下は『ミリアニ好きが恋しちゃだめですか』という本の存在を見ただけで食いつきが良かった日中の様子とは打って変わって距離を感じさせるものだった。 ひょっとしてあれから仕事の上でなにかのトラブルが発生し、思い悩んでいるのか。それとも単に疲れただけな…

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第65話

3-65.mp3 東京第一大学附属病院の外来診療棟と隣接して設置されている臨床研究棟。 ICチップ入りの入館証を持つものだけが、この建物の中に入ることが許される。 インターホンの音 このセキュアな建物の外でブリーフケースを手にして立っている男がいた。 片倉である。 濃紺の仕立ての良いスーツを着用した彼の外見は、どこか品の良さを感じさせるものだった。 第三者が見ていわゆる刑事(デカ)であると判断される出で立ちではない。 警視庁公安特課機動捜査班を指揮する立場にありながらも、普段は現場を駆けずり回るため、彼の足元には底のすり減った革靴があるのが常なのだが、今の彼の両足には鏡のように光る手入れの行き届いたものがあった。 白衣姿の男が鍵のかかったガラス製のドア越しに見えた。彼は壁側に設置されているなにかの端末を操作している。 鍵が開かれ、白衣の男がドアを開いた。 「どうぞ。」 「ありがとうございます。」 「ここで靴を脱いで内履きに履き替えてください。」 「はい。」 スーツ姿の彼は言われたとおりに靴を履き替えた。 「とりあえず何も言わずに私についてきてください。」 「わかりました。」 男はスタスタと歩きだした。 中に入ってすぐのところに守衛の詰め所のようなものがあった。 制服姿の守衛は白衣の男を見て敬礼した。 「すいません。私の客人なんです。」 「そうですか。それでしたらここにお客さんの名前、住所、連絡先、勤務先を書いてください。」…

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第64話

3-64.mp3 椎名は片倉を後ろ姿を見送って駐車場の方に移動した。 ーなんだ…領収書切るって…。 ーあ…そうか。俺が仕事を請け負って、その見返りに金を貰う。確かに受け取りましたって証拠が、ちゃんフリにいるってことか。じゃないと金の動きがわかんないもんな。なるほど、買い物のたびに貰うあの紙ペラを俺が発行しないとこの手の副業も成立しないってことか。全く几帳面な商習慣だよ。 ーまさか今日の俺、京子に怪しまれてないだろうな…。いい歳こいてそんな商習慣も知らないのはおかしいって思われてないだろうな…。 車に乗り込んだ椎名はため息を付いた。 「やっぱり俺が誰かと接触するとどこかでボロがでる可能性がある。やっぱりプランC(エス)に切り替えよう。とにかくぐちゃぐちゃにすれば良いんだ。」 携帯でSNSをチェックすると、大学立てこもり事件の話題は収束し、今度は神奈川県で銃の乱射事件があったとの話題で持ちきりだった。ここ数日の立て続けの凶悪事件の発生で世論はなにかの異変を感じ取ったのか、SNS上で混乱を感じとることができた。椎名がSNSを開いてものの3分も経たないうちに、今度は大阪でも自家用車の暴走、続いて福岡で異臭騒ぎと凶悪事件の連鎖が起こっていた。 「足りない。」 SNSのタイムラインを眺めるも、凶悪事件は連鎖的に多発しているが被害者が出たという報道には未だ触れていない。どれもが犯人逃亡もしくは自殺である。 「あと一歩足りない。」 エンジンを掛けるとダッシ…

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第63話

3-63.mp3 椎名が店に吸い込まれて行く様子を見届けた富樫は、その看板に書かれている文字を見てつぶやいた。 「ボストーク…。」 築60年のリノベーション物件。今どきの洒落た外観は富樫のような老人を快く受け入れてくれそうな雰囲気を持っていない。彼はため息を付いた。 携帯操作音 「岡田課長。」 「なんだ。」 「椎名のやつ駅の近くのボストークっちゅう店に入りました。中に入るとワシの面が割れてしまいます。」 「分かった。交代を派遣する。」 「あの、けっこう洒落た今どきの店ですので、その手のいい感じの人間をお願いします。」 「ああ任せてくれ。」 電話を切ってしばらくするとスーツ姿の紳士風の男が小綺麗な出で立ちで現れた。左手に革製の鞄。右手で傘を指している。 白髪頭に黒の太い縁のメガネをかけた彼は、物陰に隠れてこっそりと店の様子を観察しているはずの富樫の瞬時に発見して目を合わせてきた。 瞬間、富樫は思わず声を出した。 「え?」 白髪黒縁ネガネの男は富樫に不敵な笑みを見せてボストークの中に入っていった。 それを見届けた富樫は肩をすくめた。 「おいおい…。そうきたけ。」 店に入る 「いらっしゃいませ。」 店に入ってすぐのカウンター席に立つ店主らしき髭面の男がこちらを見た。 「カウンターでもいいですか。」 「うん。ここ座っていいですか?」 客は店内を見渡せる位置にあるカウンターの席を指差すと、店主はうなずいてそ…

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