第71話

3-71.mp3 「普段はしょっちゅう鼻啜ってて、言葉に支えるようなところがある医者。でも別に吃音だとかじゃない。とにかく喋りがとろい。そしてどこかオドオドしてる。そんな医者が人が変わったように流暢に喋り、かつ乱暴な言動が目につく。」 「はい。人格の豹変ぶりはまさにマンガとかに出てくる二重人格といった具合でした。」 「それがこの世のものとは思えない情景だった…。」 「はい。」 「…木下さんはその二重人格の人って今までに見たことあるんですか?」 「ありません。今回が初めてです。」 相馬は自分の顎を掴んだ。 「うーん。」 「にわかに信じがたいと思います。けど本当なんです。とにかく本当に普段と別の人格が現れたんです。」 「で、その別人格が医学生に何を?」 「ある先生のところに行って調べ物をしてこいって。」 「ある先生?え?」 木下の説明はある先生とか医学生といった抽象的な人物が出てくるため、頭の中の整理が付きづらい。 できれば固有名詞を出して順を追って説明してくれたほうが全体像が掴みやすいと、相馬は木下に提案した。 「じゃあAさんとかBさんでいいですか?」 「いや…それだと何だか直感的にわかりにくいので、できれば実際のお名前で。」 「でも…。」 「大丈夫ですよ。誰もこんなところで聞いてません。」 木下は店の中を見回した。 店内の誰もが他の客には何の関心も示していない様子だ。 銘々が自分の世界に入り込んでいる。 彼女は相馬の提案を受け…

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第70話

3-70.mp3 東京六本木。 夜のここを行き交う人々は多国籍であり、外国かと錯覚させる程である。 この雑踏をひとりあるく白人男性がいた。 「Вы все сделали?」 全部終わった? 「Сога закончилась.」曽我の件は終わりました 「Только сога?」曽我の件だけ? 「Да.」 「Что ты имеешь ввиду.」だけって…どういうことだ 「У меня проблема.」問題が発生しました 「Проблема?」問題? 「Кажется, наше существование известно. За мной следили.」我々の存在は察知されているようです。尾行されました。 「Стереть это.」消せ。 「Он не смог.」失敗しました。 「Неудача?」失敗? 「Да да」はいそうです 「Что это за человек?」どんなやつだ。 「Я думаю это полиция.」警察関係でしょう。 「Ты прячешься.」お前は身を潜めろ。 「Да.」 携帯を切ったこの白人男性はコンビニに入った。 そしてそのままトイレに向かった。 中に入ると洋式便所がある。その上部には据え付けの棚があり、予備のトイレットペーパーや消臭剤が置かれている。 彼はその棚の底のあたりを手で弄ると、指に何かが引っかかった。 テープで貼り付けられているそれを剥がし取ると、それはSI…

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第69話

3-69.mp3 天宮憲之の住まいの前には黄色の規制線が張り巡らされ、あたりは騒然としていた。 鑑識と思われる警官がマンションの通路に這いつくばって、事件の手がかりを探しているかと思えば、無線でなにかのやりとりをしている私服警官もいる。 同じマンションの住人たちが心配そうな顔でその様子を遠巻きに見つめていた。 その住人の一団を割って男が現れた。 彼は張り巡らされていてる規制線を潜り、その中に入ろうとした。 「こら!何だ君は。」 警官がとっさに彼を止めた。しかし彼は警官を振り払って先に進もうとする。 「おい!待て!」 「離して…。」 彼の声には力がない。 しかしそれとは裏腹に警官の静止を振り切ろうとする力は凄まじい。 「離して…。天宮先生はどこ?」 「待て…君は天宮先生の何なんや…。」 「いわゆる愛人ですよ。」 「え?」 羽交い締めにしていた警官の力が緩んだスキを突いて、それをすり抜けた彼は扉の中に入った。 下足類が散乱する玄関に立つとそこにいた私服警官と目があった。 「何だ君。」 「千種です。天宮先生に用事があってきました。」 「千種?用事?家族でもない人間が何の用や。部外者は立入禁止や。とっとと出てって。しっしっ。」 「部外者じゃありません。」 「は?」 「先生とは特別な関係です。」 靴を脱いだ千種は部屋に上がろうとしたところを、再び静止された。 「おい待て。いまは立入禁止や。」 「離せって。」 「おい…

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第68話

3-68.mp3 「ねぇ。本当に曽我のやつ、マンションの中に入ったの?」 「入りましたよ。この目でちゃんと見ました。」 「だったらヤバいかも。」 「え?ヤバいって?」 パンを食べていた神谷はそれをコーヒーで流し込んだ。 「すいません。なんでヤバいんですか。」 「だって電気つかないし。」 「寝てるのかもしれませんよ。」 「そうだと良いんだ。そうだと。」 神谷は双眼鏡を覗き込んだ。街灯の明かりが曽我が住む部屋のベランダを辛うじて照らしている。 部屋には明かりがついていない。 「マンションの中に入るときの曽我の表情とか覚えてる?」 「表情ですか?」 「うん。例えばなんか落ち着きがなかったとか、ソワソワしてたとか、顔色が悪かったとか。」 「そんなこと言われてみると…それ全部該当するような気がするんですけど。」 「そう…。」 「あの…ヤバいってどうヤバいんですか?」 「曽我、後ろ見たりとかしてた?」 「え?後ろですか。」 「うん。誰かが付けてるんじゃないかとか気にしてたようなことは。」 「えっと…付けてるかどうかは知りませんけど、たしかにそういう素振りは見せていました。」 「よし。ちょっと俺行ってくる。」 そう言うと神谷は車から降りた。 「ちょ…神谷さん。俺はどうすれば。」 窓を開けた雨澤は神谷に声をかける。 「雨澤くんはここで今まで通り曽我の家見張ってて。で、なにか気になることがあったらすぐに俺に連絡くれるかな。」 …

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第67話

3-67.mp3 「え?ちょっと困ります。」 男がこう言ったのを耳にした相馬は、声のするカウンター席の方を見たが、スーツを纏った男の後ろ姿が見えたただけだった。 「どうしたんですか。」 木下が相馬に声をかけた。彼女はすでに席に着いていた。 「あ、いや…。何でもありません。」 相馬は彼女と向かい合って席についた。 すぐさまおしぼりと水が二人の間に出された。 「この店は…。」 「なんだか最近SNSで話題のお店で、一回行ってみたかったんです。」 「あぁそうなんだ。木下さんも初めてなんですか。」 「はい。」 おしぼりで手を拭きながら相馬は店の中に貼られているロシア・アヴァンギャルド的ポスター類を眺めた。 ー見た目だけか…。よかった…。これで労働とか連帯とか共産主義彷彿させるコピーが入ってたらかなりガチでヤバめなんやけど…。 「変わってますね。このポスター。」 「そうですね。」 「これってロシア語ですかね。」 「多分そうだと思いますよ。キリル文字って言うんだったと思います。ネットで見たことあります。」 「なんかこの店が話題になるのもわかるなぁ…。」 木下の表情がどこか明るく見えた。 「どうしてですか?」 「妙に惹かれるんですよね。わたし。東側の兵器とか雰囲気。」 「あぁ…わかります。それ。」 「わかります?」 「ええ。言葉になかなかできないんですけど、例えば武器とかだったら何ていうか機能性だけを追い求めたらこうな…

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