第79話

3-79.mp3 スマートフォンを手にして公園のベンチに腰を掛けている男がいる。 ノーネクタイのスーツ姿。傍らにはブリーフケースもある。装いは明らかに会社員。 鞄と一緒においてあったコンビニ袋に手を突っ込んでパンを取り出した彼は、それを齧った。 いまは平日の出勤時間。 この公園を一歩出ると、すぐそこにあるのが霞が関。そこには彼と同じような姿形の人間が重苦しい顔をして忙しなく出勤中。 いまのここと向こうでは明らかに時間の流れ方が違う。そして聞こえる物音も。 彼はときおり聞こえる小鳥のさえずりを耳にし、全身で朝の清らかな空気を感じていた。 携帯電話が震えた。 パンを頬張った彼の口の動きは止まった。 画面を指でスクロールしながら彼の口から声が漏れた。 「これ…マジかいや…。」 パンを飲み込んで彼はしばらく呆然とした。そして天を仰いだ。 「どうする…マジでやばいぞ…。」 ふと向こう側に男の姿が見えた。 キョロキョロとあたりを見回しながら、何かを確かめるような足取りで進む彼の手には雨傘がある。 本日の東京の天気は晴れ。降水確率は10%。大気中の湿気も少なく、その空気は澄んでいる。 男の持ち物はこの場に似つかわしくない。 「丁度いい。ぶつけるか。」 ベンチにかけていた彼は咳払いをした。 「ごほん。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「あ。」 ベンチに掛け、何かを齧っている男の姿が三波の目に入…

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第78話

3-78.mp3 金沢市郊外の鄙びた外観の喫茶店セバストポリ。この店の中のカウンター席に加賀と黒田が隣り合うように座っていた。 「え?退職金の前借りですか。」 「うん。」 「で。」 「もちろんそんな制度はうちの会社にはない。丁重にお断りした。」 「社長はそのことを。」 「今回始めて知ったさ。宮崎さんは宮崎さんなりに安井君に気を使ってね、俺のところまで報告上げなかったみたい。彼女、謝ってきたよ。」 「そうだったんですか。」 「で、退職金の前借りの理由は息子の病気の治療費の工面だったってわけ。」 「急性骨髄性白血病(AML)ですね。」 「うん。俺、医療関係のことは専門外だからさ、詳しくはわからないけど、安井君の息子さん、結構重い状態みたいなんだ。」 「と言いますと。」 「なんか造血幹細胞移植って治療受けたらしいんだ。けど予後が良くないらしい。」 「造血幹細胞移植…。」 「キャップ知ってる?」 「自分もよくは知りませんが、たしか輸血みたいに、その幹細胞を投与する治療法だったと思います。AMLを完治させる可能性が高い一方、副作用が酷いハイリスク・ハイリターン型のものだったような。」 「そう。そのハイリスク・ハイリターンが悪い方に行ってる。で、安井君はその資金繰りに困ってそういう相談を宮崎さんにした。」 「え、でも社長、高額医療費の制度で戻ってくるじゃないですか。」 「そうなんだ。そこなんだ。俺が言うのも何だけど、ウチは意外と給料もいいし、安井君の家共働きだろ。…

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第77話

3-77.mp3 「あ、ヤスさん。」 缶コーヒーを手にした安井と偶然、廊下で遭遇した黒田は彼に声をかけた。 「なんだ。」 「なんだって、気になりますよ。」 「なんで?」 「だってその顔。」 黒田は安井の顔を指差した。 「顔?」 「ええ。酷いクマですよ。」 安井は携帯のインカメラを起動して自分の顔を様子を確認した。 「本当だ…。やべぇな…。」 「ヤスさん。酒は?」 「飲んでねぇよ。」 「じゃあ何なんでしょうね。心配になるくらいです。」 「確かに…。」 「寝不足とかですか?」 「あぁ…確かに最近、寝れてないか…。」 スマホの画面に映し出される自分の顔をまじまじと見ていた安井はそれをしまった。 「仕事、振ったほうがいいですよ。」 「振ってるよ。」 「京子に外注使わせたのは、あいつの成長から考えていいタイミングでしたね。」 「あ、そう。」 「あいつもそろそろリスクの取りどころを覚えて欲しいお年頃なんで。」 「進捗はどうよ。」 「いい感じです。」 「そっか。じゃあ結構だ。」 「どこの業者使ってるんですか。あいつ。」 「フリーランス。」 「フリー?」 「うん。」 「いい腕してますね。冗長な感じを受けさせない簡潔明瞭な編集です。」 「そう?」 「ええ。よかったら自分にも紹介してくれませんか。」 「あぁまた今度な。」 「え?今度?今度と言わず教えて下さいよ。」 「近いうちにここの会社に来るだろうから、そのと…

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第76話

3-76.mp3 夜の海は恐ろしく闇だ。 そこに立ち、しばらく経って目が慣れてきてもせいぜいが砂浜と海の境が分かる程度。 空と海の境目は闇によって判別できにくい。雨が降る状況ならばなおさらのこと。 漆黒の闇が視界を覆い、激しい雨音の中わずかに聞こえる一定のリズム、波の音。これを聞いているうちに知らず知らず目の前の闇の中に引きずり込まれるような錯覚すら覚えてしまう。 闇は人を寄せ付けない。 視覚という人間にとって最も重要な感覚をそれが削ぎ落とすからだろうか。読んで字の如し、闇によって感覚の手がかりは音に制限される。 人の存在を拒絶する闇の中から、あろうことか人形(ひとがた)のものが這い上がってきた。 ひとつではない。続いてふたつ、みっつ、よっつ。 真っ黒な人形(ひとがた)が海から這い上がり砂浜に立つ。 真っ先にそこに立った人形がシュノーケルを取り外したと判別できた瞬間、それらはウェットスーツを纏った屈強な体つきの男であると確信した。 男は合計5名。 皆両膝に手をついて前かがみになり、息が上がっているようだった。 相当疲労しているように見受けられる。 1分ほど彼らは同じ体勢だった。 落ち着いたのか一人の男が右手を自分の肩の辺りで握った。 そしてそれを開く。 すると彼に付いてきた他の4名は散り散りに別の闇に消えていった。 拳を開いた男もまたそこから別の闇の中に足を踏み出そうをしたときのことである。 彼は動きを止めた。 そしてゆっくりとこちら…

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