第7話

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圧制下のツヴァイスタンから命からがら逃げてきた自分に待ち受けていたのは、
自由とはとうてい言えないものだった。
何をするにもどこかで誰かの目が光っている。
この感覚自体はあの国にいたときとそう変わらない。
自分は本当の監視社会を身をもって知っている。
ツヴァイスタン人民共和国オフラーナ(охрана)。
彼の国の秘密警察である。
どれだけの人員がその組織に所属し、具体的にどういった任務を担っているのかは誰も知らない。
ある日突然、近所の気のいい男が彼らに連行されるところ。
なんの前触れもなくそのあたりの人間が射殺されるところ。
公衆の面前で何らかの容疑をかけられた人間がリンチされるところなど。
自分がそのオフラーナと言われる組織の活動を目の当たりにするのはこういった結果の部分だけだった。
オフラーナに隠せることなど何一つない。
なぜならツヴァイスタンには密告制度が確立されているからだ。
たとえ家族であっても反体制分子たる予兆を発見すれば、それは密告される。
なぜならその密告を怠ったことで、家族全員が処分されるなんてことはザラであるからだ。
24時間365日。一瞬も気を抜けない。
常に監視の目が光っている。
あのときと似た空気が自分を覆っている。
そう椎名は感じていた。
しかしこの国の監視はあの国のものとは決定的に違っていた。
ある日突然あらぬ疑いをかけられて、その場で逮捕。拷問の末に裁判なしの死刑なんて処分はない。
気がついたら冷たい状態で道路に自分の亡骸が打ち捨てられているなんてこともない。
近年創設された公安特課なるものが椎名の監視を行っているのだが、彼らの権力行使には警察法やスパイ防止法などの法によって一定の制限がかけられている。
逮捕1つとってもいちいち裁判所に令状を請求しなければならない。
警察権の行使によって他人の権利を侵害する際には外部のチェックが必ず入る仕組みになってるのだ。
そのため椎名にとって、彼らの監視はむしろ自分の身の安全を確保してくれるバーターとして受け入れるに易いものだった。
日々の監視に目を瞑り、自分は椎名という人物になりすます。
それだけで豊かな生活が保証されているとすれば、ツヴァイスタンにいた頃とは比較にならないほどの恵まれた環境だ。
仕事帰りに彼は自宅のアパートを通過し、郊外のネットカフェに立ち寄った。
車を降り、一応周囲の様子を見る。
受付でこの店のシステムをひととおりレクチャーを受け、個室に入った。
二畳ほどの空間にパソコンと安物のソファが設置されている。
パソコンに電源を入れるとそのデスクトップの右下に1つの「名称未設定」フォルダが表示されていた。
椎名はそれをダブルクリックしてその内容を確認した。
そして鞄の中からUSBメモリを取り出して、それをフォルダごとコピーし元となるデータを完全に消去した。
「ついでにカット割りの勉強でもするか…。」
こう言うと椎名は途方も無い数が納められている漫画棚の方に姿を消した。

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「ええ!?編集できないんですか!?」
「あー大きな声出すなよ…。」
「なんで?」
「なんでって、前から予定してる特集動画編集してるし。」
「えー。」
「ってか何の動画だよ。」
「え?」
「だから何の動画だって聞いてんだよ。」
「あ、あのー。」
「何?言えないの?言えないようなやばいネタは勘弁させてもらうよ。」
「…。」
「なんで黙ってんの。」
「いや…あの…。」
急に口ごもった彼女を見て、安井はため息をついた。
「はぁー…。見せてみろよ。」
「え?」
「見せてみろ。で、考える。」
「え、でも急にそんな事言われても…。」
「何だよ。すぐに動画編集してくれって言って、素材見せてみろって言ったらモゴモゴすんのか?言ってることとやってることがぐっちゃぐちゃじゃん。」
この安井の言葉を受けて彼女は自分のスマートフォンを差し出した。
「どれ?」
「その保存動画フォルダの中の一番下のファイルです。」
彼はそれを操作して動画を再生させた。
座席から新幹線の中の様子を映し出している、何の面白みもない映像だ。
「なにこれ。」
「新幹線の中です。」
「見ればわかるよ。で、何よ。」
「もう少しすれば動きがあります。」
1分ほど待つとそれは立ち上がって連結部分に移動した。
そこで撮影者は驚きの声を発した。
『マジか…。』
床に落ちている何やら黒い物体をカメラは収めていた。
「何だよこれ。」
「黙って見てください。」
しばらくして安井は声を上げた。
「げえっ!これってアレじゃん!。」
「はい人糞です。」
「しかも何?連結部分のあっちこっちに散らばってるよ!」
映像は手ブレがひどくて見れたものじゃない。
撮影者はカメラを回したまま、助けを求めて動き回っている。
数分経過して車掌が状況を確認するために現場にやってきた。
あまりにも大量の人糞がそこかしこに散らばっているのを見て、車掌は愕然としていた。
しかしこのままただ無為に時間を過ごすわけにも行かない。
気持ちを切り替えたのか、車掌は撮影者に暫くの間この場に乗客を入れないでくれと告げて一旦姿を消した。
そして社内にアナウンスが流れた。
『乗客の皆様にご案内があります。只今3号車と4号車の連結部分が大量のゴミのようなものが何らかの形で散乱しています。乗客の皆様には大変ご不便をおかけしますが、この連結部分の通行を原状回復できるまでの間、通行止めとさせていただきます。しかしそれには時間を要することが予想されます。その点何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。』
流石にプロだ。
原因の特定などは後回しにして原状回復を最優先にしたのだ。
この後、車掌はマスクにゴム手袋姿でビニール袋を器用に使って、その散らばっているものをとりあえず片付けだした。
「…これいつまで続くの。」
「結局富山に着くまでだそうです。」
「え?最寄りの駅とかに電車止めて清掃とかするんじゃないの?」
「私もそう思ったんですけど、やっぱりあれなんですかね。別に運行の安全に問題があるわけじゃないから、とりあえず走らせたんじゃないんですか。」
「いやぁーヒデェなこれ。ってかなんでこんなところに人糞なんか。」
「安井さん。これで終わりじゃないんですよ。」
「え?」
「何とか少しは綺麗にできたってときに、別の連結部分でも同じことが起こってるって。」
「え!?」
「で、この車掌さん。今度はそっちの方へって感じで。」
「まじかよ…。いたずらかよ…。」
携帯に流れる阿鼻叫喚の映像を止めた安井はそれを彼女に返した。
「でこれ編集してどうすんの。」
「放送します。」
「は?」
「駄目ですか?」
「え?…何のために?…まさか車掌の神対応とか?」
彼女は首を振った。
「じゃあどういうのだよ。」
「私、これただのいたずらじゃない気がするんです。」
「どういうこと?」
「なんか計画性を感じるんです。」
「そりゃあある程度なんか計画しているだろうよ。じゃないと先ずはこっちでついであっちでなんてできないよ。」
「なんかですね。効果測定しているようにも思えるんです。」
「効果測定?」
「はい。こうやったらどう出るか。どういう反応があるか。それを分析しとるような…。そのあたりをちょっと調べたんで放送してみようかと思ってんです。だから安井さん編集お願いできませんか。」
「だめ。」
安井は即答した。
「なんで。」
「こんな汚い映像編集できない。」
「う…。」
「それにこんなクソまみれな映像編集したところでモザイクとかぼかしだらけで、何の映像か分からないさ。画としてしょぼい。」
「…じゃあぼかしなしで…。」
「バカ!いくらネットメディアだって言っても何でもかんでもオープンってわけにはいかないだろ!」
「…。」
「悪いけど今回は俺はやらねぇよ。」
「…でも。」
「どうしてもちゃんフリで流したいってんだったら、お前で一回全部仕上げてみろや。」
「え?」
「取材はある程度やってんだろ、んで提供された現場の素材もある。記事書くのはお前のお手のモンだから、後はそれを形にさえできれば、それ持って上に掛け合うってこともできるだろ。」
「自分で編集までやるんですか?」
「馬鹿かお前。お前が編集なんかできっこないだろ。」
「じゃあどうすればいいんですか。」
手元のメモ帳にスラスラと何かを書き出した安井は、それをちぎって彼女に渡した。
「椎名?」
「ああ。」
「なんですこれ。」
「最近知り合ったんだ。こいつ結構いい腕持ってるよ。」
「え?フリーランスの映像制作やってる人ですか。」
「ああ。」
「でもそんな外注費用なんか会社から出ませんよ。」
「リスク取れよ。」
「え?」
「だからリスク取れって。それに見合うリターンが見込めるならな。」
今は手が離せない。そう言って安井は編集室から彼女を締め出した。
しばらく編集室の前で立ち尽くしていた彼女は、手にしていたメモ帳に再び目を落とした。
「よし。」
電話を操作する音。
呼び出し音。
「あっ。椎名賢明さんのお電話ですか。」
「わたくし、ネットメディアのちゃんねるフリーダム記者の片倉京子と申します。弊社カメラマンの安井の紹介でお電話いたしました。」



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