第9話

ArtWork



金沢市郊外の図書館には新年度が始まったばかりの穏やかな時間が流れていた。
タートルネックのニットにジャケット姿。ジーンズを履いている足元は革のサイドゴアブーツ。
小奇麗な出で立ちの彼は自習室で何かの本を開き、ノートにペンを走らせていた。
空閑である。
「ふう~。」
本を閉じた彼は机の上を片付けて席を立った。
本を元の位置に戻して図書館を後にすると彼は携帯電話を耳に当てた。
「私だ。」
「現代建築の文学的考察に。」
「ああ。」
「…何?」
「わかった…今晩会おう。」
携帯電話を懐にしまった彼は車に乗り込んだ。
「椎名が…。」
エンジンを掛けるとダッシュボードに組み込まれた時計が15時を表示した。

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「ふーん…。」
自宅の畳に座ってなにかの書類に目を通す古田の鼻には老眼鏡が乗っていた。
「で、なんでまたこの光定ってヤツは、こんな田舎の大学病院なんかに来たんや。」
「東一の水が合わんかったようなんです。」
「水が合わん…か。」
「ええ。まぁ結局のところ人間関係がうまく行かんかった。それが原因のようですよ。んで大学時代の恩師でもある石大の天宮(あまみや)教授を頼って、ここの大学病院に来た。」
「それが去年。」
「はい。かつての久美子の担当医である曽我は心療内科の世界では名の通った医師です。彼の研究論文は世界的にも評価され、先ごろは科学雑誌にもその論文は掲載されました。」
「知っとる。そんな優秀な医者やからこそ、久美子の本当のことを突き止めれるんじゃないかって思っとったんや。ほやけどそんな曽我でもやっぱり無理やったんやな…。」
「これまでの経緯を見ればそういうことになります。」
「やっぱり東一からオファー受けたら、そっちのほうに行ってしまうんやな。」
「ええ。石大から東一ですから。」
「飛び級みたいなもんや。」
「ええ。つまり石大においては東一レベルの医師が心療内科からおらんくなるっちゅうことになります。」
「損失やな。」
「はい。損失を埋めるには相応の人間を充てがうことでカバーせんといかんでしょう。曽我の後釜は曽我レベルの医師でないと釣り合いが取れません。ゆうてもそんな人材、プロパーでちゃっちゃと補充なんかできません。そこで天宮教授は東一の医局に曽我の変わりの人材を石大に出すよう交渉。あそこの医局は人間関係に悩まされとる光定医師を石大へ交換で移籍させる提案を出した。それを天宮教授が了承しヤツがこっちに来たって具合です。」
「経緯はわかった。んでワシが気になっとるんは、その光定って医者の実力の程なんや。」
「実力...ですか?」
「ああ。」
「まぁ腐っても日本一の偏差値を誇る東京第一大学医学部卒のエリート医師です。そういうモノサシで測れば曽我よりも優秀ですよ。」
「偏差値ねぇ…。」
「曽我の分析に手詰まり感があったんですから、ここで流れを変えるって発想もありじゃないですか。」
「流れね…。」
「どうしたんですか古田さん。」
「いや…流れ変えるんはいいんやけど、それが良い流れになるかどうかはわからんぞ。」
畳の上に置かれた光定の写真を見つめて、富樫は顎に手をやった。
「古田さんは何を案じてらっしゃるんですか。」
「…。」
「光定公信はわれわれの調べではシロですよ。」
「うん。わかっとる。」
「じゃあ…。」
「確かにこいつはキレイなんやろう。ほやけどなぁ。」
「確かになんかタイミングがね…。」
富樫は切れの悪い返事をした。
「どうや。ほら加佐ノ岬のやつ。」
上目遣いで古田は富樫を見た。
富樫は首を振る。
「ドザエモンも揚がっとらんがか。」
「はい。」
「それはまずいな。」
「はい。」
「人も載せんと船を出すなんて、普通は考えられん。」
「まあそうです。」
「まんまと潜伏したか。」
「可能性は高いと。」
「どうや類似の案件は。」
「今回のをあわせて5件です。2ヶ月で」
「5件!?5件もか。」
「ええ。1年間にゼロ件やったこの種の日本海側の漂着船案件が、2ヶ月で多発。」
「マルトク上層部は。」
「沈黙です。」
古田は天を仰いだ。
そして深く息をついてタバコを咥えた。
「マサさん。」
「うん。」
「あんた何でまだ、サツカンやっとるんけ。」
「え?」
「あ、いや…ワシ、最近なんか頭がボーってすることが多いんや。」
「そら古田さん血圧高いからですわ。」
「いや、そうじゃなくてマジで老いを感じるんや。」
「まぁ70になりましたからね。」
「おう。マサさんはまだ65。70になると本当にがっくり来るぞ。なんかもうワシ限界な感じがする。」
「やめてください。あなた公安特課顧問捜査官でしょ。非常勤の勤務とはいえノンキャリ叩き上げで70っちゅう高齢にもかかわらず、いまだ現役ってのは我々定年組に人生設計の一縷の望みを与えてくれとるんですから。」
「なんや。んならマサさんはワシを手本にしとるってか?」
「…ま、まぁ。」
ニヤリと笑った古田の歯はヤニで黄色かった。
「そうそう仁川はどうや。」
「変わりなし。」
「…そうか。」
「椎名賢明になってからは、何も変哲のない生活を送っとります。」
「あいつ何歳になったんやったっけ?」
「44です。」
「これは?」
古田は小指を立てた。
それを見た富樫は即座に首を振った。
「ほうか…やっぱり流石にそれくらいの歳やと、そういう場も少ないわな…。」
「仁川は気の毒ですよ。命からがらこの国に逃げ延びてきたというのに、帰ってきたら帰ってきたで、両親は既に死んどって、ツヴァイスタンと似たような監視生活。」
「婚期も逃すちゅうと、更に救われんか…。」
富樫はため息を付いた。
「いや…救われん状況がひとつ増えるだけ。」
「ん?マサさん、それはどういうことや。」
「仁川はすでにもう救われん状況にあります。そこにまたひとつ悲しい現実が突きつけられるだけ。」
「…ずいぶんと非情なことを」
「いえ。」
「…っちゅうとなんや。」
「ちょっと揺さぶってみようと思っとるんです。」
「なに?」
「こっちから蜂の巣を引っ掻き回してやろうかと。」
富樫は古田と目を合わせずに、畳の上に置かれた冷めたほうじ茶に口をつけた。
「あいつは本当の監視社会を知っとる。」
「ええ。」
「気を付けれや。」
「…はい。」

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閉館時間30分前の21時30分。
閑散とした図書館に一人の男の姿があった。
科学技術系の図書を元のところに戻し、
次いで芸術・建築のコーナーで足を止めた彼は、一冊の本を手にとった。
『現代建築の文学的考察』
パラパラとページをめくり、ある箇所で彼の手は止まった。
そこに挟んであったメモ用紙をつかんだ彼の手は、そのままコートのポケットの中に隠れた。
本を元の場所に戻した彼は軽く鼻をすすって、その場から立ち去った。



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