第12話



充電ケーブルに繋がれた枕元のスマートフォンを軽くタッチすると時刻が表示された。
午前5時である。
椎名はそれを手にしてベッドから身を起こした。
そのまま彼は部屋の電気をつけることなく、着替えを手にして風呂場に向かった。
シャワーの音
ー新幹線のあれが何者かによる何かの実験のようなものって線はだれだって思いつくし、実際それっぽいこと言ってる奴は既にいる…。だがどれもがざっくりとした観念的なもんだ。そんなものは別に問題じゃない。
ーだがKの見立ては違う。
ー今回撒き散らされたのは人糞。その量は一度の排便によるものとは思えない量だった。これが示すのは2つの可能性。ひとつははじめから撒き散らすつもりで外部からそれを持ち込んだ可能性。もうひとつは二人以上の人間が別々の場所で排便した可能性。後者の場合、便所じゃない場所で排便をすることになる。排便には一定の時間を要する。そのため人目に触れないようにそういった行為をするのは、他人から目撃されやすくリスクが大きい。できることなら避けたいはずだ。となると前者の外部から持ち込んだ説をとるのが有力だ。
ー外部から持ち込んだとすると、これは重要な意味を持つことになる。少なくとも現在の日本の鉄道においては基本的にどんなものでもノーチェックで持ち込みが可能であるということだ。
ー正解だよ。正解。人糞ってのは臭いがする。俺らはこの臭いに対する周囲の反応を知りたかったんだ。無臭の神経剤は周囲のどれだけの人間に影響を及ぼすか、出たとこ勝負さ。でも臭いがあればその影響は見てわかる。そうだよまさに効果測定さ。化学兵器のな。
ーそれに人糞を撒けば、原状復帰までの現場対応を予め知ることができる。どれだけの人員や時間が原状復帰に注がれるか。どういったプロセスが取られるのか。電車はどういう運行をされるのか。乗客にはどう対応するのか。必要なデータが一度に入手できるってわけだ。
ーで、Kは既にそれに気がついてるってわけだ。
ーさすがだよ。鋭いよ。
ーひょっとしてあいつ、親父からネタ仕入れているのか…。
ーまぁいい。そのためのプランBだ。
シャワーを止める
ーここは保険を打っておいたほうがいいかもしれないな。
風呂場のドアを開き、脱衣所に置いてあった携帯を彼は手にした。そして再びシャワーを流す。
「ああ俺だ。」
「どうした。こんな早くに。」
「...ちょっと急なんだが、おまえのところで手を入れてもらえないか。」
「何があった?」
「いや…ちょっと保険でな…。」
「…聞いている。案の定、Kのやつ気がついているんだろ。」
「ああ。」
「まったく…するどいな。」
「本当だよ。噂以上の敏腕記者だ。」
「お前がいま手伝ってるその動画が出回ったら、それバレるのか?」
「いや。時間稼ぎをしておいた。だがそのうち真相にたどり着く。」
「いま変に動くと足がつくかもしれないぞ。」
「今しかない。」
電話の向こう側から息を付く音が聞こえた。
「手をうつって…どんなだ。」
「とりあえず周辺をひとつ消す。」
「周辺ね…。対象は。」
「おって指示するよ。」
「…わかった。」
電話を切って椎名はシャワーを頭から浴びた。
ー熱い…。なんて心地いいんだ…。
ーこの瞬間だけだ…俺を全てから解放させてくれるのは…。
ーはっきり言ってこれさえあればそれで良いんだ…。
ー俺は…。
ー俺だけなら…。
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5年前…
「金沢ですか?」
「はい。」
「どうして?」
「いろいろ検討した結果です。」
「福井じゃだめですか。」
「はい。」
「ひょっとして私は何かを疑われているとかですか。」
「何を?」
「いえ…。」
「椎名さん。椎名さんの住所は金沢ですよ。どうして福井に?」
「あ…。」
「そういう点は特に気をつけてくださいね。」
「…はい。」
男は鍵を椎名に渡した。
「これが椎名さんの住まいの鍵です。で、これがあなたの住まい。」
タブレットを操作して男はその物件の情報を表示させた。
「必要最低限の家財道具はすでに運び入れてあります。ですから今すぐにでもそこで生活ができますよ。」
「何から何まで…ありがとうございます。」
「あなたが今まで受けてきた労苦を思えば、これくらい何のこともありません。むしろもっと良い生活を保証しないと。」
「いえ。十分すぎます。」
「ではこれ。」
彼は銀行通帳と印鑑、キャッシュカードを椎名に渡す。
「何はともあれ、この国ではお金がないと生活に困ります。当場の生活費として100万円を用意しました。まずはこれで身の回りのものを充実させてください。」
「は、はい…。」
「で、身の回りの環境を整えたら、1ヶ月後職安に行ってください。」
「職安ですか?」
「はい。まずは椎名さんに一日でも早く、この国での生活に慣れていただくために、特別職業訓練講座を実施させていただきます。」
「職業訓練?」
「ええ。先生が椎名さんをマンツーマンで指導しますのでご安心ください。」
「えっと、どういった訓練なんですか?」
「椎名さんは写真がご趣味でしたね。」
「…はい。」
「その写真の知識を少しでも活かすという意味でDTPの技術を習得してもらいます。」
「DTP?」
「ええ。まぁ行けばわかりますよ。」
「はぁ。」
「訓練修了となれば、それなりの職場を斡旋します。椎名さんは何の心配もしなくていい。」
これからの生活の説明をひと通り受けた椎名は新幹線に乗り、一路金沢へと移動した。
改札口からでると、親しい間柄の人間の到着を待ち望んでいたのだろう。
齢60程度のえびす顔の男がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
どこの国にもある心和む情景に椎名は顔をほころばせて、その男の横を通過しようとした。
「椎名賢明さんですね。」
「え?」
「車用意しています。こっちどうぞ。」
「え…でも…。」
「ご心配なく。警察です。」
「警察…ですか…?」
「ええ。あなたの名前を知っとるのはごく一部の人間だけ。それだけで私を信用するのに十分でしょう。」
「は…はい…。」
車の中
「わたしは県警本部の富樫といいます。以後お見知りおきを。」
「はい…。」
「私がここ金沢でのあなたの生活の面倒を見る担当官です。もしも身の回りのことや生活についてお困りごとがあれば何なりとおっしゃってください。」
「警察が私を…。」
「ええ。協力を惜しまないと言ったでしょ。東京の担当官。」
「はい。」
「聞いてますよ私も。彼から。」
「…。」
「ここで言わんでもいいです。私はあなたがどういう経験をしてきたか知っとる。」
「…そうですか。」
「言葉にはできん壮絶な体験です。」
「あの国では普通です。」
社内にしばし沈黙が流れた。
「あなたが留守にしとる間に、この国は変わりました。世の中の仕組みとかテクノロジーとか。」
「…そうみたいですね。」
「わたしはあなたにそこんところを1ヶ月の間に集中的に教える役割を担っとります。」
「1ヶ月…なるほど。」
「そうです。その後、社会復帰の第一歩を踏み出してもらうってわけですわ。」
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シャワーから上がった椎名は歯を磨きながら冷蔵庫を開いた。
中には納豆のパックとバターくらいしか入っていなかった。
ー食い物がない…か。
冷蔵庫を閉じた椎名は携帯の時計をみた。時刻は6時を回ったあたりだった。
ー冷蔵庫に納豆とバターが入ってる。これが一般的に食うに困るって状況らしいよ。アナスタシア…。
ー人間の欲ってもんは際限がないもんだね…。
ー救われないよ。俺ら…。
ーもう少しだけ待ってて…すぐに行くから…。
ーみんなを連れて。


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