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「予約した椎名です。」
こう言って椎名はボストークの店主である髭面の男にメモ用紙の切れ端を手渡した。
「急げ。」
店主は黙ってうなずき、それをポケットの中にしまった。
「お連れ様は先に奥の席にいます。」
「もう?」
「はい。10分ほど前に。」
店の奥を見るとショートカットの女性がうつむき加減で座っていた。
「寝てます。」
「寝てる?」
「ええ。ほら。」
座ったまま体を時折前後する船を漕ぐ状態である。
「片倉さん。片倉さん。」
近づいて名前を呼ぶも返事がない。
「困ったな…。」
相手が男なら肩をさすったり、叩いてみたりして物理的接触で起こすことはできるだろう。
しかし目の前の人間は女性だ。しかもこの間仕事で初めて会った程度の付き合いの女性。触れて起こそうものなら、下手をするとセクハラ事案に発展しかねない。
ふと椎名は足元に目をやった。
彼女はスニーカーを履いていた。
ーちょいとゴメンよ。
椎名は彼女のつま先を強めに蹴った。
「うあ?」
「片倉さん。」
頭を上げた彼女は寝ぼけなまこだった。
「椎名です。」
「あ?」
店の照明の影響か彼女の頬はなにやら光っている。
椎名は目を細めてその部位を凝視した。
「片倉さん…よだれ…。」
「へ?」
「よだれ垂れてます…。」
「え?」
素手で自分の頬を拭うと何かを悟ったのか、彼女は顔を赤らめた。
そしてバッグの中か急いでハンカチのようなものを取り出して、そこをごしごしと拭いた。
「あの…。」
「ご、ごめんなさい!」
「あ、いえ…自分は…。」
「本当にごめんなさい!」
一介の女性を一方的に謝らせてしまっている状態であることを椎名は気がついた。
ふと周囲の様子をみると痛いほどの視線が自分に向けられていた。
ーまずいなぁ…。
「ごめんなさい。その…ちょっと疲れてしまって…。」
自分の頬を拭ったハンカチを口に当てて片倉はその匂いを嗅ぐ。瞬間、彼女は不快な表情をみせた。
「あの…ひょっとして、臭いとか?」
「え?」
「あーわかります。うっつらうつらって寝てて、ハッって気がついたらヨダレ垂らしてて、慌てて手で拭いて、深い意味ないけどなんとなく匂い嗅いだら超臭かったってことありますよね。」
「う…。」
「やっぱり女の人も同じことあるんだ。男特有の現象かと思ってた。」
京子は咳払いをした。
「あ、失礼。」
「いいえ。よだれクサクサマンです。」
「あの…そんなつもりで言ったわけじゃ…。」
「いいんです。事実ですから。」
「はぁ…。」
一方的に女性が謝る状況から、普通に会話が交わされる状況に変わった二人に周囲は途端に関心を示さなくなった。
日常のボストークが戻っていた。
「お疲れですか。」
「…ええ。」
「あの東京で起こったあれ関係ですか?」
京子はうなずいた。
「びっくりしましたよ。」
「私もです。大したニュースじゃなければ、ちゃんフリとしては東京の話なんで通常運行で行くんですけど、今回のは事件が事件でしょ。ちゃんフリとしてこの大事件をどういう斬り方をするかって、視聴者は待ってる。だから解説の人を急遽ブッキングしたり、在京メディアからソース提供してもらったりっててんやわんやだったんです。」
「見ましたよ僕も。」
「ありがとうございます。どうでした?」
「大川さんの解説はいつも勉強になります。今回も安全保障予算の実効性を問う発言でしたね。」
「…はい。」
「新設の公安特課の有用性を点検する必要があるのではというのは同意できます。ですがただ…。」
「ただ?」
「すいませんなんでもありません。気にしないでください。」
「なんでもないことないです。聞かせてください。視聴者の生の声は私達にとって貴重です。」
「…ほんとうにしょうもない個人的意見ですよ。」
「いいです。お願いします。」
「あの…別に自分はちゃんフリをdisるわけじゃないんですが。」
「気にしないで。」
「大川さんの言ってることは正しいと思います。正論です。けど正論で人は動きません。そんな正論だれだってわかってるんです。その正論をみんながわかっているのに実行できていない。それが問題なんです。だからいまさら予算の再点検とか微妙だと思うんです。」
「…じゃあ椎名さんはどういったお考えを?」
「これです…。」
椎名は1枚のDVDを彼女に差し出した。
「ご依頼のプレビュー版です。」
「あ…ありがとうございます。」
「僕はこれが早く世にでることがいま最も大事な事なんだと思ってます。」
「はい?」
コーヒーが給仕された。
椎名はそれに砂糖とクリームを入れる。
「え?それどういうことです?」
「片倉さん。言ってるじゃないですかここで。」
「あの…意味わかりません。」
「うんこ事件は実験のようだって。」
「はぁ…。」
「化学兵器の実験ですよね。」
「そうです。」
「この編集をしたまさにそのタイミングで今回の東倉病院の事件です。正直、僕はわけがわかりませんでした。あまりにもタイムリーだったんで。」
「それは私もです。」
「東倉病院の事件以前に化学兵器使用テロを予見していたメディアというか報道は私が知る限り、貴方のこの動画だけです。もしもこの動画がもっと早く世に出回っていれば、事前に世間に科学テロの注意を換気させることができたんじゃないかと思うんです。みんなが気をつければ、危険は未然に防がれる可能性が高まります。いまからでも遅くない。」
「注意喚起…。」
「はい。僕は大川さんのような誰もが頷くが実効性に乏しい正論よりも、片倉さんのような地道な報道のほうが結局実効性があると思うんです。ひとりでも多くの人に問題意識を持って行動してもらう。これが問題解決の早道です。」
「…ありがとうございます。早期公開についてはデスクにかけあってみます。」
「ぜひ。」
「ふぅ…んなら残り二回分の制作も急がんと…。」
「ええ。」
「早々に椎名さんに原稿と素材を渡します。椎名さんのご都合はどうですか。」
「僕はいつでもいいですよ。」
「じゃあ月曜夜にもう一度お会いできませんか。そこでプレビューの返事もします。」
「わかりました。」
京子はDVDをカバンにしまった。
「あれですか。」
「はい?」
「やっぱりツヴァイスタンによるものなんですか。今回の事件は。」
「…わかりません。ネットじゃもうその国の犯行ってことで盛り上がっていますけど、証拠も何もないそうです。」
「あぁ…そうなんですか。」
「はい。全部憶測です。」
「でも結構な勢いですよ。ネット見る限りじゃ。」
「たしかにそうですが、盛り上がっとるのはネットの中の一部です。その一部がやたら声が大きいんで皆がこの事件はツヴァイスタンによるものやって判断しとるように受け止められるだけです。」
「確かに。」
「ただ…心配なんですよね。」
「何が?」
「いくらネットって限定的な空間の言論でも、今みたいに過激な意見が拡散する。で同調する人間が増え、一定数に達する。そうすればこのネットを主とする勢力は政治的発言権と影響力を持ち始めます。」
「…はい。」
「合法的に過激な意見が台頭する。それって結構物騒な話だと思いませんか。」
コーヒーに口をつけた椎名は無言になった。
携帯が震える音
何かの通知だろうか。
携帯を取りだした京子はそれをみた。
「なにかありました?」
「ひどい…。」
「何が?」
彼女は携帯を椎名に見せた。
「これは…。」
「信号待ちの歩行者に車が突っ込む。またですよ…。」
「どこですか。」
「東京です。」
「高齢者ですか。」
「たぶん。」
「いい加減…自主返納とかいって強制力を持たない政策を改めないと…どんどん事態は悪くなる。」
「そうですね。」
「この事故の件といい、東倉病院の件といいどうもこの国は予防的な政策が弱い。何でもかんでも事が起こってからじゃないと動けない悪い癖があります。だからこそ然るべきメディアがその弱い部分を補完するための注意喚起をするのは大事なことだと思いますよ。」
京子は椎名の目を見てうなずいた。
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