第63話



椎名が店に吸い込まれて行く様子を見届けた富樫は、その看板に書かれている文字を見てつぶやいた。

「ボストーク…。」

築60年のリノベーション物件。今どきの洒落た外観は富樫のような老人を快く受け入れてくれそうな雰囲気を持っていない。彼はため息を付いた。

携帯操作音

「岡田課長。」
「なんだ。」
「椎名のやつ駅の近くのボストークっちゅう店に入りました。中に入るとワシの面が割れてしまいます。」
「分かった。交代を派遣する。」
「あの、けっこう洒落た今どきの店ですので、その手のいい感じの人間をお願いします。」
「ああ任せてくれ。」

電話を切ってしばらくするとスーツ姿の紳士風の男が小綺麗な出で立ちで現れた。左手に革製の鞄。右手で傘を指している。
白髪頭に黒の太い縁のメガネをかけた彼は、物陰に隠れてこっそりと店の様子を観察しているはずの富樫の瞬時に発見して目を合わせてきた。
瞬間、富樫は思わず声を出した。

「え?」

白髪黒縁ネガネの男は富樫に不敵な笑みを見せてボストークの中に入っていった。
それを見届けた富樫は肩をすくめた。

「おいおい…。そうきたけ。」

店に入る

「いらっしゃいませ。」

店に入ってすぐのカウンター席に立つ店主らしき髭面の男がこちらを見た。

「カウンターでもいいですか。」
「うん。ここ座っていいですか?」

客は店内を見渡せる位置にあるカウンターの席を指差すと、店主はうなずいてそれに応えた。
どっこいしょと言って席に座ると、水とおしぼりが出された。彼は手を拭きながら店の壁面に掲げられている黒板にチョークで書かれたメニューを眺める。
奥のボックス席にはこちらの方を向いてパソコンを広げて座る椎名の姿が確認できた。

「えっと…コーヒーもらえますか。ホットで。」
「淹れ方選べますが。」
「淹れ方?」
「はい。ハンドドリップとフレンチプレスです。」
「え?それどういうのですか。」
「ハンドドリップは一般的な淹れ方。フレンチプレスは豆本来の味を楽しむ淹れ方です。」
「うーん。一般的なやつでいいです。」

オーダーをした彼は携帯を取り出した。そしてそれを触りながら向こう側に見える椎名の様子に目をやった。

「パソコン広げてる。ハックできるか。」

しばらくしてメッセージが返ってきた。

「ネットに接続してれば。」
「やってみてくれ。そして報告をくれ。」
「了解。」

白髪姿の男はこの端的なメッセージのやり取りを終え、携帯をしまった。
そして持っていた鞄から一冊の文庫本を手にしてそれに目を通し始めた。
しばらくしてコーヒーが出された。

「ホットコーヒーです。」
「ありがとう。」
「ごゆっくりどうぞ。」
「あ、ちょっといいですか。」
「なんですか。」
「このお店、なんでこう、ロシア・アヴァンギャルドなポスターで飾ってるんですか。」
「あぁお客さんはご存知なんですか、ロシア・アヴァンギャルド。」
「知ってるってほどじゃないですが。その単語くらいは。」
「自分も正直あんまり知らないんです。」
「え?そうなんですか。」
「はい。この店作るときに友人にプロデュースしてもらいまして。」
「へぇ。」
「いまはとにかく画になるものが受けるらしいんです。それでその方面に明るい友人にプロデュースしてもらってこうなったって感じなんですよ。」
「それにしても随分と斬新ですね。」
「そうですね。現代じゃまず見ないデザインですからね、この手のやつは。ほら使われている色数っていうんですか。それが少ない割にすごいはっきり目に飛び込んでくる。」
「ええ。」
「何ていうんですか、メリハリが効いてるんですよね。そのあたりが新鮮でして。それにキリル文字ってのが珍しくてウケてるのかも。」
「確かに。普段の生活では触れないデザインとフォントですね。」
「ええ。」
「しかし、なんて書いてあるんでしょうかね。これらは。」
「書かれているロシア語とかは自分、全然わからないんですよ。正直なところ。」
「ああそうなんですか。」
「はい。見た目のかっこよさでチョイスされてるみたいです。」
「あとで写真撮ってもいいですか。店の中とか。」
「ええもちろん。」

客はコーヒーに口をつけた。

「うまい。」

思わず声が漏れた。

「ありがとうございます。」
「…いやぁ、正直コーヒーなんてどれも同じだと思ってたけど、違うもんですね。」
「そう言っていただければ。」

ごゆっくりと言って店主は店の奥に姿を消した。
客は再び携帯電話を取り出した。そして何度かシャッターを切って店内の様子をカメラに収めた。
その時である。ひとりの客が店の中に入ってきた。

「いらっしゃいませ。」
「あの、先に入ってると思うんですが。」

ーえ…。

白髪黒縁メガネの彼の動きは止まった。

「あ、奥の席にいらっしゃいますよ。」
「ありがとうございます。」

ー片倉さんの娘さんやがいや…。

彼女は店の奥にいる椎名と向かい合うように座った。

ーえ…?どういうことけ…。

双方とも笑顔である。

ー確かあの娘、相馬と付き合っとるとかって聞いたことあるけど…。
ーなんでその娘が椎名とサシで…あ、ほうや…仕事かなんかやな…。
ーいや…あの娘、ちゃんフリで記者やっとるはずや…。仕事か…。ってかなんで仕事で椎名なんかと接触しとるんや…。
ーまさか…椎名が仁川やって嗅ぎつけた…?

彼は再び携帯を手にしてそれを触った。

「片倉京子が椎名と合流。」
「…え?片倉京子?」
「なにか知ってる?ふたりの接点。」
「いいえ。課長の方こそなにか知らんがですか。」
「知らん。」
「…偶然ですかね。」
「椎名と一番接点を持ってほしくない人種やぞ、マスコミってやつは。」
「まさか…これ、椎名なりの陽動ですかね。」
「わからん。とにかくしばらく様子見る。」
「了解。こちらはもう少しで椎名のパソコンに侵入できそうです。」
「そうか。できるか。」
「ええ。」
「頼む。報告待ってる。」

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「おまたせしました。」
「いいえ。」

席につくなり京子はコーヒーをオーダーした。

「メールで連絡したとおり、この間のあれは明日配信することになりました。」
「ありがとうございます。」
「今回の特集ですが、弊社の社長の目に止まったみたいで、残りの2本分も早々に仕上げてほしいということになったんです。」
「それはそれは…。って、早々に仕上げるって具体的には。」

京子は鞄の中から書類の束を取り出して、それを椎名に手渡した。

「残り2本分の原稿を持ってきたんです。ざっくりとしたコンテも書きました。」

厚さ1センチはあろうかと思われる、結構なボリュームの資料だ。椎名はそれをパラパラとめくった。
1本目は人糞事件の動機を探る構成だった。今回の事件はなんらかの実験を行った可能性が高いと結論づけたそれを受け、2本目は今回の事件と同じように実験的な事件は過去にどういったものがあったのかを紹介。つづいて3本目は実験から容疑者は何を得て、何をしようとしているのかを具体的に考えるというものだった。

「片倉さんは人糞事件はテロの実験と見ていますよね。」
「はい。」
「人糞事件と同じようなテロの実験と目された過去の事件を何件か紹介、分析。そこから得られた知見や経験を容疑者の視点でどう活用するかを紐解く。そしてその犯罪者の思考を逆手に取った予防策を提示する。ですか。」
「そうです。」
「おもしろいですね。」
「詳しい内容は原稿を読んでください。」
「わかりました。で、どれだけ急ぎなんですか。」
「今週末にはプレビューしたいんです。」
「週末ですか?2本とも?」

京子はうなずいた。

「無茶振りですね。」
「無理を承知でお願いします。」
「あの…自分、本業あるんですけど。」
「実はナレーションの収録はすでに終わっています。」

そういうと京子は鞄からUSBメモリをとりだした。

「少しでも椎名さんの作業を円滑に進めれたらと思って、勝手に済ませてきました。」
「は…はぁ…。」
「使えそうな素材もここにひと通り入れてあります。なのでどうでしょうか椎名さん。お願いできませんか。」

胸元にしまってあった携帯が震えたため、岡田はそれを手にした。
メッセージが届いている。
富樫から「接続完了」とあった。

「なにか変わった箇所は?」
「今のところ見当たりません。自宅で使用している状態と何の変化もありません。」

店の奥でこちらに背を向けて座っている片倉京子が何かを椎名に手渡したように見えた。

「すいません。トイレってどこですか。」

岡田はさり気なく席を立ち、京子と椎名の様子を横目で見ながらトイレに入った。

「片倉京子が椎名にUSBを渡した。」
「了解。モニターします。」

一応用を足した彼は水を流して、再び二人を横目で見ながら席に戻った。
改めて椎名を見ると広げていたパソコンを閉じてそれを鞄にしまっていた。

「接続が切れました。」
「パソコンのファイルに変化は。」
「ありません。」

岡田はため息を付いた。

「わかりました。週末までになんとかやってみます。」
「ありがとうございます。」

京子は椎名に向かって頭を下げた。
そして鞄の中から銀行の封筒を取り出して、それを椎名の前に差し出した。

「これは?」
「1本目の報酬です。」
「え?もう?」
「はい。明日配信されますから。1本目の仕事はもう完了しています。どうぞ受け取ってください。」
「あ…ありがとうございます。」
「ついては椎名さん。領収書いただけますか?」
「領収書?」
「はい。」
「えーっと。」
「領収書おねがいします。」
「領収書…って…。」
「あ、そうでしたか。」
「え?」
「領収書お持ちじゃなかったんですね。」
「あ、えぇ…まぁ…。」
「じゃあ改めましょうか。」
「あ、はい。」
「じゃ一旦その封筒を返してくださいますか。」
「返す?」
「はい。」
「え?」
「え?」

お互いが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「あ、そうだ。椎名さんの口座番号教えて下さい。そちらに振り込みます。そうすれば領収書なんか必要ありませんから。」
「あ、あぁ…振り込みですね。そうですね。」

椎名は封筒を返却して、自身の口座番号を京子に伝えた。

「そういえば椎名さんは初めてなんですね。仕事として映像の編集をするの。」
「あ、はい。」
「そうですよね。普段は領収書って貰うもんですからね。」
「はい…。」
「自分で商売していないと、領収書を書くなんて普通はないですから、ちょっとピンときませんよね。」
「そ、う、ですね。」
「すいません。気が付きませんで。」

そう言って京子は笑みを浮かべてコーヒーに口をつけた。

ー京子が椎名にUSBを渡して、銀行の封筒渡そうとした。多分あれ現金やろう…。あの二人何のビジネスでつながっとるんや。

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