第65話



東京第一大学附属病院の外来診療棟と隣接して設置されている臨床研究棟。
ICチップ入りの入館証を持つものだけが、この建物の中に入ることが許される。

インターホンの音

このセキュアな建物の外でブリーフケースを手にして立っている男がいた。
片倉である。
濃紺の仕立ての良いスーツを着用した彼の外見は、どこか品の良さを感じさせるものだった。
第三者が見ていわゆる刑事(デカ)であると判断される出で立ちではない。
警視庁公安特課機動捜査班を指揮する立場にありながらも、普段は現場を駆けずり回るため、彼の足元には底のすり減った革靴があるのが常なのだが、今の彼の両足には鏡のように光る手入れの行き届いたものがあった。
白衣姿の男が鍵のかかったガラス製のドア越しに見えた。彼は壁側に設置されているなにかの端末を操作している。
鍵が開かれ、白衣の男がドアを開いた。

「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「ここで靴を脱いで内履きに履き替えてください。」
「はい。」

スーツ姿の彼は言われたとおりに靴を履き替えた。

「とりあえず何も言わずに私についてきてください。」
「わかりました。」

男はスタスタと歩きだした。
中に入ってすぐのところに守衛の詰め所のようなものがあった。
制服姿の守衛は白衣の男を見て敬礼した。

「すいません。私の客人なんです。」
「そうですか。それでしたらここにお客さんの名前、住所、連絡先、勤務先を書いてください。」

片倉はわかりましたと言って、研究棟入退出簿と言われるそれにペンを走らせた。

「ドットメディカルさん…ですか。」
「はい。」
「名刺と身分証お願いします。」

片倉はそれを守衛に提示した。
守衛は手際よくそれらをスキャンし、ネックストラップ付きの名札ケースと一緒に片倉に返却した。

「館内ではこれを首からかけてください。この名札があなたを関係者であると証明しますので。」
「はい。」
「お帰りの際は、その名札を持ってここで手続きしてください。」
「はい。」
「じゃあ行きましょう。」

白衣姿の男がこう呼びかけたため、片倉は彼に続いて再び歩き出した。

「片倉さん。その首からかけているやつ。」
「え?」
「それがマスターキーです。守衛には私から話をつけてあります。」
「あぁ…そうですか。」
「研究室のドアにカードリーダーがありますから、それにかざせば曽我先生の部屋の鍵は空きます。」
「ありがとうございます。」
「でも問題があるんですよ。」
「といいますと。」
「この研究棟にはそこかしこに監視カメラが付いてましてね、基本さっきの守衛がそれをチェックしてるんですけど、中央管理室ってのが別にあって、そこでさっきの守衛と別の人間が建物の様子を監視してるんです。」
「ほう。」

片倉は白衣姿の男の横に並んで歩きながら、天井の方に目をやった。たしかに一定の間隔でカメラがある。

「鍵はあなたが言ったようにうまくやった。けど、カメラまでは私の手には負えませんでした。」
「十分ですよ。」
「どうするんです?」
「ご心配なく。わたしに考えがあります。先生はそのまま自然な形でわたしと歩いてください。」
「はぁ…。」

二人はエレベーターに乗り込んだ。

「それにしても先生、大したもんですよ。」
「え?」
「だってこんな短時間で守衛を取り込んでしまうんですから。」
「ま、まぁ…。」
「どんな手使ったんです?」
「なんでもいいでしょう。」
「…ははっ。そうですね。」

二人は4階で降りた。

「この階に曽我先生の研究室が。」
「はい。一番奥の部屋です。」
「わかりました。じゃあちょっと先生。トイレ行きません?」
「え?。」
「連れションですよ。連れション。」

トイレに入って手にしていたブリーフケースを小便器の上において片倉は用を足し始めた。
彼と一緒にトイレに入った白衣姿の男も隣り合うように用を足す。

「先生。これ。」

用を足す片倉の目の前にブリーフケースと一緒にICレコーダーが置かれていた。

「用を足したらどうぞこいつを回収ください。」
「あ、はい。」
「これはコピーで元データは私の手元にあるなんてセコい真似は私はしません。ご心配なく。さっきの音声データはここに入っているもので全てです。」
「…。」
「流石に便所まで監視カメラはないでしょう。衛生的に微妙ですけどどうぞ。」
「わかりました…。」

用を足した片倉はブリーフケースを手にした。

「じゃ。これで。」
「え?どうするんですかこれから。」
「曽我先生の部屋に入ります。」
「バレますよ。」
「大丈夫です。なんとかなりますよ。先生はそのままご自分の部屋に戻ってください。」
「でも。」
「いいから。先生がそうやって自然に振る舞うことが大事なんです。」

片倉は首から下げていたストラップを外し、それをポケットにしまった。

「じゃ」

片倉はトイレを後にした。
そしてうつむき加減でそのまま進み、彼に言われた一番奥の部屋の前に立った。
おもむろに片倉はストラップ付きの名札ケースを取り出して、扉の前にあるリーダーにかざした。
鍵が解錠されるのを確認して、片倉は部屋の扉を開いて中に入った。

「中央管理室かなんか知らんけど、一介の警備員が研究者の顔と名前を全部把握しとるなんて普通考えられんげんて。それっぽい格好でそれっぽい雰囲気だしとりゃ、本人やと思うもんや。まぁ顔認証のシステムとか入っとったら話は別やけど。」

さてと言って片倉は窓側の曽我のものと思われるデスクの前に立った。
そしてその引き出しに手をかける。
それはすんなりと開かれた。

「鍵掛かけんって不用心やな。」

鞄からペンライトを取り出した片倉はそれで机の中を照らしながら、その中を弄った。

「しっかし…ずいぶんな散らかりようやな。机の中もそうやけど部屋の中、紙だらけやがいや。いまどき医療関係でこんな紙だらけっていうのもどうねんて…。」

机の中をひととおり調べた片倉はため息を付いた。

「ここん中にはなにもない。」

携帯が震える
携帯を手にした片倉はそこに表示されるメッセージを確認する。
江国からのものであった。

「対象は自宅に返ってきた模様。ウチの人間が監視に入ります。」
「了解。」

携帯をしまった片倉はほっと息をついた。

「これでひとまずこいつの身の安全は図れそうやな。」

机の周辺に目ぼしいものを見つけることができなかった彼は、書架の方に目をやった。
英語表記の分厚い医学書のようなものや、パット見では何が書かれている本かわからない専門書ばかりが其処にしまってある。それにしてもこの部屋、机の周辺だけならまだしも、この書架の中も随分な散らかり様だ。
いや散らかると言うか、とりあえずそのスペースにありとあらゆる本や紙書類をねじ込みましたという具合。気になる本があってもそれをすんなりと取り出すことが困難な状態だ。
古田は天宮の自宅はゴミ屋敷のようだったと言った。
この曽我も天宮と同じ人種なのだろうか。

「あれ?」

雑然とする書架の中の一冊の本に目が止まった。

「MKウルトラ異聞…。」

ーあれ…これどっかで聞いたことある…。

片倉はそれを手にとった。その時である。彼は異変に気がついた。
雑然とした書架の本や書類の多くが埃のようなものを纏い、それはただの飾りのようになっていたのだが、この本はそのような様子はない。埃のようなものを纏ってはおらず、何度も読み返されているのか背の辺りがすり減っている。
片倉は本をめくった。

「アメリカ中央情報局科学技術本部がタビストック人間関係研究所と極秘裏に実施していた洗脳実験のコードネーム…。」

ーなんや、オカルト本じゃいや。
ーってかなんでサイエンスの人間がオカルト本なんか研究所に持ち込んどれんて。
ーアホくさ…。
ーでも、なんで俺、この本の名前にひっかかれんろ…。

ハードカバーのそれを畳んだ瞬間、彼の動きは止まった。

「なに…。」

著者名は聞いたこともない。だがこの本の監修者が片倉の動きを止めた。印刷されているその人物の名前は天宮憲之だった。

片倉はペンライトを咥えて、その本を再び開いた。

ーLSD等の薬物を使用して自白をさせたり、超音波を使用して記憶を抹消させるなど、その洗脳実験は多岐にわたったわけだが、ある時を境にしてその実験内容などはすべて闇に葬り去られた。したがってこのウルトラの最終的な目標と、具体的な活動内容は全くの秘密のままだ。真実を知ろうにも今となってはその関係者と思われる人物の証言に頼るところが大きいのだが、それらもすべてが高齢化、もしくは死亡しており、その全容の解明は不可能であると思われた。しかし著者はこのMKウルトラは形を変えてアメリカではない別の国で今現在も行われていると言う情報をキャッチした。

「おいおい独自ルートってやつかよ…にしてもthe・オカルトって感じやな。」

片倉はページをパラパラと捲った。
中には蛍光ペンで所々線が引いてある。

「拷問…強烈な光の照射…無意味な反復…無意識の中の意識…サブリミナル…薬物…貧困…格差助長…選民思想…象徴的なもの…瞬間催眠…。瞬間催眠?」

ーいま某国で取り組まれているのは、自白や記憶の改竄、抹消といったものではなく、他人を瞬時に自分の意のままに操ることができる瞬間的な催眠メソッドの開発らしい。自白や記憶抹消と言ったことはいわゆる事後的洗脳であり、戦略の観点から言えばネガティブであると言える。しかし瞬間催眠はことを起こすための前段階で利用することができ、いうなればポジティブな洗脳メソッドといえ、その可能性は計り知れない。

「おいおい…マジかいや…。腐っても東一の教授やってんぞ。天宮。そんな人間がこんなオカルト本の監修って…。」
「でも…そんなオカルト本を弟子筋の曽我が…。」
「ってことは天宮の門下生はひょっとしてこの話…。まさか光定もか…。」

とっさに片倉は携帯でこの「MKウルトラ異聞」を検索した。
現在は絶版のようだ。どうやらネット書店でも手に入らないらしい。

「3日の間に返しますよ。」

そう言って片倉は古びたハードカバーのそれをブリーフケースにしまった。
そしてうつむき加減で曽我の部屋を後にした。

この記事へのコメント