第81話



時刻は7時50分。椎名の勤務する印刷会社の始業時刻は8時15分。始業25分前の到着。余裕のある朝だ。
制作フロアには椎名以外のスタッフはまだ出社していない。
彼は自席パソコンの電源を入れ、次いで各種端末を立ち上げた。
いつもの通りならあと10分ほどでこの部署の課長が出社する。
それまでは彼を邪魔するものはない。
人の気配を確認した椎名はおもむろに携帯のSIMカードを入れ替えた。

しばらくして通知が画面に表示された。

「ルークか…。」

こうつぶやくと椎名はそれをタップした。

「よくわからないことが起きている…だと…。」

会社の自販機で買った缶コーヒーの蓋を開けた椎名はそれにレスポンスする。

「具体的に教えてくれ。」

間もなく紀伊からの返信があった。

「キング。お前は天宮の死は他殺だって知ってたか。」
「あぁビショップから聞いてる。クイーンの病院に搬送されたんだろう。たまたまそれをクイーンが目撃、曽我の処分を速やかに実行させた。」
「俺は天宮の他殺も曽我処分のことも知らなかった。」
「おいおい待てよ。お前サツだろうが。」
「…おそらくサツの中で情報を隠匿している奴がいる。」
「待てよ。天下の特高を欺こうなんてそんな大それた奴がいるのか?冗談はよせよ。」
「冗談なんかじゃない。事実だ。」

紀伊の穏やかならぬ様子が文面から伝わって来ていた。

「曽我の処分はそれはそれでいいとしよう。しかし俺が預かり知らない事件が俺の身近で発生したことは由々しき事態だ。」
「どういう意味だ。」
「これが続くようだと制御不能になる。」
「制御不能…。」
「実は曽我殺害を実行したと思われる人間が遺体で発見された。」
「え?」
「首をぱっくりやられるプロの手口。曽我の殺しの背景にプロの存在が居ますよって堂々と見せつけてるようなもんだ。」
「ヤドルチェンコにしては雑だな…。」
「雑すぎる。こんなわかりやすい状況を残したら、みすみすサツの餌食になるだけだ。」
「そうだな。」
「いまの俺はサツの内部の情報の交通整理ができていない状態だ。そこに俺が預かり知らないモンが入り込んでくると、確実にそいつは事故を起こす。」
「うん。」
「ここでの事故は致命的だ。それは俺もお前も望んでいないことだと思うんだが。」
「確かに。」
「とにかく今回のビショップの采配は俺は首をかしげる。キング。お前の方で軌道修正してやってくれ。」
「わかった。」

「おはようさーん。」

課長が制作フロアに入ってきた。

「おはようございます。」
「今日も早いね。」
「渋滞が嫌でして。」
「そうは言うけど、その分早く家出ないといけないじゃん。」
「早起きは別に苦にはならないんで。」
「羨ましいね。」

椎名と何気ない会話をしながら自席のパソコンの電源を入れた彼は、各種端末の方に行き、それらがすべて起動しているか指を指して確認している。それを横目に椎名は携帯のSIMを入れ替えた。

「ヨシ。」

こういうと彼は壁に貼られているホワイトボードに目をやった。

「あそうか。椎名、今日は朝イチから外出か。」
「あ、はい。」
「でどうなの。そのちゃんねるフリーダムからの仕事って。」
「創業5周年を記念したページものです。」
「5周年?普通10年からだろ。」
「羽振り良いんじゃないですか。」
「確かに…。今日日ありがたい話だね。」
「はい。」
「でもページ物だったら足長いか…。」
「原稿の状態次第ですが。」
「できるだけ早めの納品ができるよう話持っていってよ。ウチ、結構しんどいからさ。」
「がんばります。」
「俺も何か仕事引っ張ってこないと存在感薄くなっちまうなー。」
「何いってんですか。制作部隊にも仕事とってこいっていううちの会社が異常なんですよ。」
「仕方ないじゃん。営業に頼ってての今なんだから。」
「まぁ…。」
「いいじゃん。お前、一応一本引っ張ってきたんだから。あーどうしよう。できれば俺このままシューって消えたいくらいだわ。」
「課長、ひょっとして…。」
「うん。昨日、部長に詰められてさ…。」
「あ…。それは…。」
「どこかに身を潜めて、雨風しのいでふらっと現れる、なんてことは許してくれないもんかねぇ。」

ため息を付いた彼はタバコを手にして喫煙所の方に消えていった。
「ふっ…具合が悪くなったらイチ抜け。そんな都合のいいことなんてできっこないだろ。強制的に存在自体を消されたこっちの身にもなってみろ。アホが。もうお前らはこのゲームから抜けることはできないんだ。もがき苦しんで、命乞いしてそのまま死ね。」

椎名の目から感情が消えていた。

「最後まで付き合ってもらうよ。」

こうつぶやいた椎名の携帯には安井隆道の電話番号が表示されていた。

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「小早川先生はいま来客中です。」
「あれぇ…おかしいなぁ。」

東京第一大学臨床研究棟。この外でインターホン越しに守衛室とやり取りする三波の姿があった。

「お約束でしたか。」
「はい。今日の朝一番でお会いする約束でした。」
「失礼ですが。」
「石川大学病院部総務人事課の中村と申します。」
「石川大学。」
「はい。」

しばらくして守衛らしき男が鍵を開けに来た。

「あの…先生、来客なんですよね。もしなんだったら時間調整して出直しますが。」
「いえ大丈夫です。突然の来客のようですから。」
「突然?」
「はい。もう用事は済むようです。」

この守衛の言う通り、間もなくスーツ姿の男がエレベーターホールに姿を現した。

「あの方が先客さんです。」

三波は男の方をちらりと見た。
どこにでもいるような何の特徴もない男であるというのが、第一印象だ。
そのあまりもの特徴のなさに三波は妙な違和感を覚えた。
スーツ姿の彼はこちらの方にやってきて守衛の前で入館証を返却し、退館時刻を入退館簿に記載。
警備員に軽くありがとうと言ってそこから姿を消した。

「こちらにお客さんの氏名、勤務先、連絡先、入館時刻を記載して下さい。」
「あ…はい。」

このとき彼はいま去っていった人物の名前を知る。
山本商事株式会社、山本健太。
ありふれている。外見は奇妙なくらい特徴がない。それにも増して勤務先も氏名も特徴がない。
三波はこの男の存在が気になった。

インターホン音

「はい。」
「石川大学医学部総務人事部の中村と申します。」
「お早い対応ありがとうございます。どうぞ。」

そう言うと電子鍵が開かれる音が聞こえた。
三波は扉を開いた。

「お待ちしていました。」

研究室奥に立って三波の訪問を迎える小早川がそこに居た。

「どうぞおかけになってください。」

中央にあるソファに掛けるのを促された三波は言われるままにそこにかけた。

「急なことで私もびっくりしています…。」
「ええ、天宮先生の急逝だけでも驚きなのに、曽我先生の死は衝撃以外の何物でもありません。」
「確かに。」
「現在の石大の優秀な人材は天宮先生のお力添えがあってなされたもの。生前、天宮先生は日本の最高学府たる東一との交流を蜜にすることで、医学系分野における石大のプレゼンスを確固たるものにすべしと常々おっしゃっていました。曽我先生の東一派遣もその一環でした。」
「そうですね。」
「この流れは天宮先生の急逝によって絶たれることがあってはならない。そういう思いで今回、天宮先生の一番弟子である小早川先生を本学に招聘し、今までの東一との関係をさらに蜜にそして円滑にするべしとの意見が大勢を占めています。」
「…それは恐縮です。」
「現在、先生をいかなる役職で本学に招聘するかを調整中です、しかし実はここでひとつ問題が発生していまして。」
「問題?」
「今回、私が先生の下に派遣されたのはその点を今一度確認するために伺った次第なんです。」
「…。」

このときの小早川の表情からは明らかに不快な様子が感じ取れた。

「あ、心配には及びません。石大プロパーのつまらぬ嫉妬ですよ。」
「プロパーの嫉妬。」
「はい。先生もご存知でしょう。田舎特有の足の引っ張り合いです。」
「…つまらんですね。」
「はい。実績ではどうにも歯が立たない相手に、重箱の隅を突っつくようなアラ探して、なんとか相手を引きずり下ろす。暇人がやることです。」
「それに私が付き合わなければならないと?」
「簡単な確認作業です。先生の手は煩わせません。わたしの質問にこの場でお答えしていただければそれですべてがうまくいきます。」
「…。」
「逆にここで先生に渋られたら、それはそれで先生は愚民どもに付け入る隙きを与えてしまうことになります。」
「…いいでしょう。」
「ありがとうございます。」

席を立った小早川はコーヒーメーカーの前に立った。

「中村さんって言いました?」
「はい。」
「コーヒーには砂糖とかミルク入れます?」
「え?いえ…。」
「ブラックですね。」

彼はコーヒーメーカーのボタンを押す。

「…私はひとさまになかなかコーヒー淹れたりしませんよ。」
「…え?。」
「あなたは頭がいい。」
「はい?」
「私は頭がいい人が大好きです。」
「あ…恐縮です…。」
「気に入りました。あなたの言葉。」
「え?私、なに言いましたか。」
「愚民ね…。ホッホッホッ…。」

小早川は自らの口を手で覆い、不気味に笑った。

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