第83話



「全部ですか?」
「うん。ここのリストにある動画全部止めてくれない?」
「そんな…。」
「社長命令。」
「本当ですか!?」
「ああ本当。」
「わかりました…。」

編成責任の彼は黒田に言われたとおり、パソコンを操作してそれらの配信を止めだした。

「全部手作業です。ある程度時間かかります。」
「いい。いっぺんに全部消えるより自然でいい。」
「でもユーザー対応どうします?」
「諸般の事情で配信を一時的に停止します。再開の目処がたった段階で改めてお知らせします。この文章を配信停止コンテンツに表示できるようにできない?」
「できます。」
「じゃあそんな感じでお願い。」
「わかりました。」
「このこと社内で知ってるのは俺と君だけだから。バレたらその段階で社長から社内にアナウンスするらしいから心配しないで。」
「今までの分はそうやって対応するにして、これから制作から上がってくるコンテンツはどうします?」
「それはそれでそのまま上げて。あとで必要に応じて対応するから。」
「了解です。」

編成責任者の肩を軽く叩いた黒田は、その部屋から退出した。
そしてそのままトイレに向かい、その個室に入った。
そこで彼は携帯を手にしてアプリを起動する。
画面には部屋の様子が俯瞰で捉えられていた。

ー戻ってきた…。

安井がエナジードリンクを手にして部屋に入ってきた。
編集機材の前に座り、彼はその蓋を開く。
ごくごくと喉を鳴らしてそれを飲み、勢いよく息を吐いた。
2度ほど顔を両手で叩いた彼は、ダブルモニターの機材と向き合って作業を始めた。

黒田がアプリを操作するとそこに表示される映像が切り替わった。
映像は安井の背後からモニターの様子を捉えている。

ー特に不審な点はない…。

安井のデスクに備え付けられている電話が鳴った。

「はい安井です。…あぁ来ましたか。」

そう言うと安井のモニターの表示が変わった。社内システムのプロツェスだ。

「…そうですね…。No.2空いてるみたいだから、そっちに通してもらえます?」

電話を切った安井は鞄を肩にかけ、編集室を後にした。

ー珍しい…来客か。

携帯でプロツェスにアクセスした黒田はNo.2と呼ばれる部屋の予約情報を見た。
9時半から10時の30分の使用予約を、今しがた安井がとったようだった。

ー誰だろう相手。

水を流す音

トイレから出た黒田はそのまま会社玄関の受付に向かった。
その時、廊下で見覚えのない男とすれ違った。
彼の首にはGuestと書かれた入館証が下げられていた。

ーこいつか。

黒田は男を横目で見てそのまま会社玄関の総務部の受付に向かった。

「おはよう。」
「あ、おはようございます黒田デスク。」
「ちょっと見せてもらっていい?」

こう言って黒田はオフィスの入退出簿を確認した。

「椎名…賢明…。」

「椎名賢明。印刷会社のDTPやってる。映像の編集は独学さ。自分の腕を試してみたいって言ったから京子に紹介した。」77

黒田はついさっき自分とすれ違った椎名の姿を思い出そうとした。

「あれ?」

おかしい、思い出せない。
どんな服装を着ていたか、年の頃いくつくらいだったか、メガネを掛けていたか、どんな髪型だったか。
何も記憶に残っていない。
なるほど特徴がないからか。
しかしこうも何も記憶に引っかからない人間が居るものか。
居る。
存在を消す存在。これを黒田は覚えている。

公安だ。

彼らは自分の力でその存在感を消すことができる人種だ。
獲物を狩るために気配を消しそれに近づき、確実にそれを仕留める生き物。
そのため彼らには不思議な臭いがある。
言うなれば野生の狼といった具合か。
しかしこの椎名という男、その臭いすら感じさせない。

「ごめん。この椎名ってどういう感じの人だった?」
「え?」
「外見とか、何歳くらいだったとか。」

この質問に彼女なりに記憶を引っ張り出そうとする。しかし黒田の期待する答えは出てこなかった。

「おかしいな…思い出せない…。」

ーなんだこれ…変だ…。

「安井君が編集室で何をやってるのかどんな手段を使ってでもいい。すぐに突き止めろ。」78

ーNo.2にはカメラもなにもない。

「この椎名って人、何の用で安井さんと面会だった?」
「いえ、商談とだけ。」

駄目だ埒が明かない。椎名に関する手がかりはこの者からはこれ以上得ることはできない。

「ちょっと防犯カメラ見せてもらえる?」

入り口に2台設置された防犯カメラ、そのどちらかに椎名の姿形が残っているはずだ。
黒田はそれを再生した。

「おいおい…。マジかよ…。」

黒田が驚いたのも無理もない。
2台の防犯カメラ。これらにはほとんど死角はない。来訪者の顔をほぼ漏れなく抑えることができるように設置されている。
この椎名も例外ではない。彼の外見は確実に抑えられていた。
しかし不思議なことに顔だけは捕捉されていない。
ガラス戸のサッシに顔が被っていたり、うつむき加減のため映っていなかったり、はたまた携帯を耳に当てるような素振りでもって顔を覆うなどして、ことごとく彼の顔だけは映っていなかった。

「こんなことってあるかよ…。」

黒田は胸騒ぎがした。

「ええ。よかったら自分にも紹介してくれませんか。」
「あぁまた今度な。」
「え?今度?今度と言わず教えて下さいよ。」
「近いうちにここの会社に来るだろうから、そのとき紹介するさ。」77

ー入館名簿見たら椎名の名前があったから突撃してみたって感じで行ってもいいだろ。有事対応なんだし。

踵を返して黒田はNo.2の部屋に向かおうとした。
その時である。

「デスク?」

すぐそこに京子が居た。

「あ…。」
「どうしたんですかデスクこんなところで。」

ーあ、そうだ。椎名と一番接点持ってる奴がここに居た。

「あ、おう。おはよう…。」
「おはようございます。」
「ど…どうよ。」
「え?なにが?」
「ほらあれ。」
「あれ?」
「うん。あれ。」
「あれって…あれですか。」
「うん。」
「…ごめんなさい。デスクが何のこと言っとるんかわかりません。」
「あ…。」
「特集の件?」
「おう、そう。それ。」
「え?今日配信ですよね。」
「はい。」
「その分の報酬振り込んできました。いま。」

京子はポケットから振込受取書を取り出してみせた。

「あ、椎名さんに?」
「え?デスク知ってるんですか椎名さん。」
「え…まぁ…今朝、安井さんから教えてもらった。」
「なんだ…。」
「ってか、京子おまえ経理に相談したの?その支払いで。」
「え?」
「ほら相手フリーなんだろ。だったら源泉の支払いとかの話あるじゃん。」
「え…なんですそれって…。初めて聞くんですけど…。」
「あーそこまでは安井さん教えてくれなかったんだ。」
「はい。」
「あー困ったなぁ…。」
「でもデスク。これ一応椎名さんっていう個人の編集者に対するわたしの個人的な依頼ですから。」
「あ、そうか。会社はノータッチだった。」
「そうです。」
「でも、2本目以降は会社通しな。社長から残る2本分急げって言われてんだ。会社として責任持って支払うから。」
「わかりました。」
「あーでもどう処理するんだろ…。経理とか税務署うるさいんだよなぁ。」
「私にリスクとれって言ったのはデスクですよ。」

確かに自分のせいだ。それなりにリスクのとり方までレクチャーするべきだった。
数時間後に何勝手なことをやっているんだと総務部に叱られる自分の姿が、容易に想像できた。
黒田はため息を付いた。

「にしても、もうちょっと待ってりゃ振り込みなんかしないで、ここできれいな形で本人に渡せたんだけどな。」
「それがあの人、領収書持ってなくて。」
「あぁそれで振り込み…。」
「ん?ここで渡す?」
「うん。いま会社に来た。」
「え?」
「なんでも安井さんに用があるらしいんだ。」
「あぁ椎名さん、今ここに来てるんですか。」
「うん。」
「じゃあ話早いですね。」
「どした?」
「残り2本のことでちょっと補足で話したいことあって。」
「あ、そう。」
「どこに居るんですか?」
「No.2。」
「じゃ後でちょっとお邪魔しよっと。」

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「どうも。」
「今日は早いね。」
「営業サイドから突っつかれてまして。」
「あぁ、記念誌の件。」
「僕がここに堂々と出入りするのは印刷屋としての仕事があるからですよ。安井さん。」
「そうだったな。」
「この間はありがとうございました。大川さんにちゃんと渡してくれたんですね。」
「…あぁ。」
「大川さんの依頼も着実にこなしていらっしゃるようで、流石といったところですか。」

安井は無言になった。

「どうしました?」
「椎名くん。」
「はい。」
「そろそろ潮時だぜ。」
「なんで?」
「報道のデスクが俺のことを怪しみだした。大川と俺が個人的にあってることも抑えてるみたいだ。」
「…。」
「もう時間の問題だ。」
「だから手を引かせてほしいと?」
「そんな事は言っていない。ただ今後の君等の計画に障害が出る可能性がある。」
「問題ない。」
「ん?」
「問題ないですよ安井さん。計画が大きければ大きいほど、関係する人間は増える。その分バレる危険性を常に孕むのはあたりまえ。」
「事程左様に君等の計画ってのは、俺にも想像できないほど大きいものだってことか…。」
「いいえ。」
「え?」
「僕はきっかけを作るだけです。あとは野となれ山となれです。僕が安井隆道という男とこうやっていま会っていることも、大川尚道と接点を持ってることも、片倉京子と組んで映像を編集していることも全部ただのきっかけづくり。」
「ご縁ってやつ?」
「うーん…ちょっと違うかも。」
「ふっ…君はよくわからんよ。」
「わかんなくて当然です。」
「なんだそれ。」
「そもそも僕はこの世に存在していないんですから。」

安井は椎名が何を言っているのか理解できなかった。

「…これ以上妙な問答はやめましょう。生産的じゃない。」
「…。」
「安井さん同様、僕にも時間がありませんので。」

ふと窓の外を見つめる椎名の視線の先に、隣接するホテルからこちらを見つめる男の姿があった。

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「ベネシュ隊長。本社より連絡です。」
「なんだ。」
「日本時間5月2日土曜、14時決行との報です。」

双眼鏡を外した彼は白人だった。
振り返った彼の前に3名の屈強な体つきの男性があった。

「よろしい。諸君はそれまで所定の位置で待機だ。その14時の合図を持って我々は行動する。」
「はっ。」
「日本人は噂に違わず正確な仕事をする。さすがといったところか。」
「あのプリマコフ中佐も一目置く人物ですから。」
「ふっ…。」

ベネシュと呼ばれる彼は再び双眼鏡を覗いた。
そこに映り込む男を見て彼はつぶやいた。

「майор Цзиньхуа. 仁川少佐。」

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